曖昧さ回避
1.日本の島の名。同名の島は複数あるが、本項目では日本海上にある竹島について説明する。
2.大阪府大阪市西淀川区に存在する地名。JR東西線加島駅の仮称でもあった。駅名決定でのいざこざから、竹島地区に面した出入り口には「加島」の駅名が冠されずあたかも「竹島駅」であるかのような不思議な状態となっている。
3.日本人の姓のひとつ。
概要
国際的には「リアンクール岩礁」という国際名称でも呼ばれており、隠岐ではこれが元になった「リャンコ島」という呼び名もある。
地理
隠岐諸島の北西約157km、北緯37度14分、東経131度52分の日本海上に位置する群島であり、島根県隠岐郡隠岐の島町に属する。行政区画上は『島根県隠岐郡隠岐の島町竹島官有無番地』となり、事実行為が無ければ住所は置けないが、本籍を置くことは法律上可能である。
東側の女島(東島)、西側の男島(西島)の2つの小島とその周辺の数十の岩礁からなり、総面積は約0.21平方km(日比谷公園とほぼ同面積)である。
各島は海面からそびえ立つ急峻な火山島であり、その周囲は断崖絶壁をなし、そもそも土が無いため植生や飲料水に乏しい。周辺は対馬暖流と北からのリマン海流の接点であり、豊かな漁場であるが、島自体の経済的価値はほとんど無い。
領土問題
1952年1月、韓国の初代大統領李承晩が、突如竹島の周辺海域を自国側に組み込んだ(李承晩ライン)。これにより当該海域で日本漁船の拿捕や銃撃事件が相次ぎ、日本の漁業従事者に死傷者が多数出る事態となった。韓国は船舶327隻もの日本漁船を拿捕。3911人の漁師を拘束し、うち8人を殺害した。日本政府およびGHQはこれに抗議したが、サンフランシスコ平和条約発効直前の同年4月20日、傷痍軍人・警察官・右翼などで構成された民兵組織「独島義勇守備隊」が島を占拠、海上保安庁の巡視船「へくら」と交戦する。
このように、韓国による竹島占拠は国際法はもちろん、韓国の国内法にも根拠を持たず、韓国の民間人によってなしくずし的に行われたものであった。
1956年に韓国の警察官が常駐するようになり、以降韓国の不法占拠が続いている。韓国軍が駐屯しないのは、韓国による「占領」と見なされるのを避けるためであるとされる。
1965年の日韓基本条約により日韓の間に正式な国交が持たれるようになってからも、竹島の領有権問題は棚上げにされ、現在に至っている。
韓国の竹島占拠は、日本の米軍占領下〜米軍駐留のもとで行われ、この件に関して米軍が一切動かなかったことから、日米同盟および米軍の日本駐留が、日本の領土保全に役立つものであるか疑問が呈されることがある。
日本国内の見解
日本国外務省の公式見解
・竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに日本固有の領土です。
・韓国による竹島の占拠は、国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり、韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではありません。
・日本は竹島の領有権を巡る問題について、国際法にのっとり、冷静かつ平和的に紛争を解決する考えです。
(注)韓国側からは、日本が竹島を実効的に支配し、領有権を再確認した1905年より前に、韓国が同島を実効的に支配していたことを示す明確な根拠は提示されていません。
日本政府以外の公式見解・主張
現在、日本において「竹島(独島)は韓国領である」と主張する国政政党は存在しないが、社会民主党やれいわ新選組は日本領であるとも公式に明言しておらず、関係者が韓国側の領有権主張を擁護しているとも受け取れる発言をしたこともある(詳細は後述)。
また日本共産党は、現在の日本政府の領有権主張を正当なものと認めながらも、大日本帝国による1905年の領有宣言は、日韓協約によって当時の大韓帝国が日本の保護国となって外交権を実質的に奪われた状態で行われており、大韓帝国が日本の領有宣言に反対を唱える事ができなかった事実を考慮するべきであるとしている。
また、勤労千葉(国鉄千葉動力車労働組合)のように、「独島は韓国の領土である」と主張する組織は日本国内においても存在する→参照
言論人では橋下徹が、韓国が警備隊を常駐させているという積み重ねられた事実がある以上は日韓両国で共同管理を目指すべきと主張をしており(日本の領有権の放棄、後退には当たらないとしている)、社会民主党の参院選比例代表候補である金泰泳(キムテヨン)も、日韓どちらかの領土かについては諸説あり断定できないという理由でこちらも日韓による共同管理を主張している。
また、れいわ新選組の党代表である山本太郎は、かつてテレビ番組に出演した際に「竹島は韓国にあげたらよい」と発言して、ネット上で批判が集中した為、ブログに謝罪文を掲載しており、番組の編集で前後の発言が切り取られた結果として、「尖閣諸島と違い、竹島は日本政府がもっと早くに手は打てたはずだが、何の手も打たずに領有権主張を繰り返すだけの日本政府の尻を叩く」という目的だった自身の発言の趣旨が正しく伝わらなかったと釈明している。
竹島と鬱陵島(韓国に存在するもう一つの「竹島」)
古く江戸時代には、日本側は李氏朝鮮の鬱陵島を竹島と呼称しており、朝鮮側もそれを異称の一つとして受け入れており、一方で竹島の事を日本側は松島と呼称していた。
その名残りは今も残されており、韓国で竹島と言えば、鬱陵島の東約2.2kmに位置する付属島の「竹嶼(チュクソ、죽서)」を指し、現在韓国では専ら竹島(チュクト、죽도)とも呼ばれている。
この竹嶼は地理的要件からも古来于山島と呼ばれてきた島とも考えられており(詳細は後述)、実際、『廣輿圖』(1737年)、『大東輿地図』(1861年)などの古地図にも鬱陵島の東側に付属島としての于山島(つまり、竹嶼に該当する)が描かれているが、韓国の歴史研究者などはこぞってこの于山島が独島(竹島)のことであると主張している。
また、鬱陵島には北東に位置する「観音島(クァヌムド、관음도)」という付属島もあり、こちらも竹嶼同様に于山島に該当するのではないかとする主張、もしくは1900年に大韓帝国が江原道鬱島郡に編入したとされる『石島(ソクト、석도)』(詳細は後述)に該当するのではないかとする主張があり、竹島問題を論じる上でのひとつの要素となっている。
韓国では「日本が鬱陵島の領有権を主張している」と誤解している人も少なくなく、しかも本項の竹島(独島)がどこにあるのかも、領土問題の活発化までほとんど認知されてこなかった。
こうした誤解と認識の捻じれもあって、竹島問題は一進一退の状況が続いている。
歴史
日本側の歴史
江戸時代
1618年に鳥取藩の商人が江戸幕府から許可を得て鬱陵島に漁業目的で渡航しており、鬱陵島への渡航を続ける過程で中継地点として竹島の存在を認識したようで、17世紀の中頃には竹島の存在が日本側の文献に登場し始めており、1650~1660年代頃には、日本側における最古の竹島の地図であるとされる『松嶋絵図』が作成されている。
日本人の鬱陵島への渡航はその後も続いたが、1692年に邦人が鬱陵島へ出漁した際、現地で朝鮮人の漁民と遭遇し、翌年に渡航した際にもまた朝鮮人と遭遇した為、日本側は朝鮮人が(日本領である)鬱陵島に不法渡航していると判断し、安龍福(アン・ピンシャ)と朴於屯(パク・オドゥン)の2人を日本に連行。
その後、江戸幕府は2人を朝鮮に送還すると同時に、李氏朝鮮に対して鬱陵島への朝鮮人の渡航禁止を要請するが、朝鮮側は鬱陵島が自国領であるとして反発し、その後約6年間、鬱陵島の領有権をめぐって、後に「竹島一件」と呼ばれることになる外交問題が起こっている。
竹島一件は、最終的に幕府が邦人に対して鬱陵島への渡航禁止令を出し、朝鮮に対してもその旨を通達する事で幕引きとなるが、同時に、幕府としては朝鮮が鬱陵島の領有権を有する事までは認めないという、玉虫色の幕引きでもあった(現代の政治でもよくある光景である)。
また、この時に両国間で争われたのは、あくまで鬱陵島の帰属についてであって、竹島の帰属については日本も朝鮮も一切問題視しておらず、幕府の渡航禁止令もあくまで鬱陵島に対してのものであり、竹島への渡航は特に禁止されなかった。
渡航禁止令が出た後も邦人の鬱陵島への不法渡航の事例はあり、幕府は都度それを密貿易の罪で処罰しており、1836年(天保7年)には浜田藩の商人が鬱陵島での密貿易で処罰されているが(竹島事件)、その判決文に「松島(竹島)へ渡航の名目をもって竹島にわたり」と記されていることから、鬱陵島への渡航が禁止された後も、竹島への渡航は特に禁止されていなかった事が窺える。
韓国側の歴史
高麗王朝時代
高麗王朝時代の1145年に成立した歴史書『三国史記』によると、かつて鬱陵島に「于山国」という古代国家があり、512年にその于山国が新羅に服属したとされている。
『三国史記』に「于山国は別名を鬱陵島という」「(島の)外周は百里ほど(短里の1里=80mを適用すると約8kmとなり、実際の鬱陵島の外周より少し小さい程度となる)」と記述されている事から、于山国が鬱陵島を中心とした国であった事はほぼ間違いないようだが、『三国史記』の于山国の記述には、于山国本島(鬱陵島)以外の島々に関する記述は出てこない。
李氏朝鮮時代
李氏朝鮮の時代になり、1451年頃に成立したとされる『高麗史』にも鬱陵島の記述があり、鬱陵島について「かつて于山国と称し、一説に武陵や羽陵とも言われ、百里四方ある」としながら、「一説には、于山・武陵この二島は互いに距離は遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる」と、武陵(鬱陵島)以外にも「于山島」という別の島が存在するとしている。
于山島の名は1431年に編纂された『太宗実録』にも記されており、太宗十七年(1417年)の項に、「按撫使(巡察使)が于山島から還ったとき、大きな竹や水牛皮、芋などを持ち帰り、3人の住民を連れて来た。そして、その島には15戸の家があり男女併せて86人の住民がいる」と報告しているが、同じく『太宗実録』のそれ以前の記述である太宗十二年(1412年)の項には、「島民11戸60人余りが、武陵島から流山国島に移った」と、鬱陵島とは別に「流山国島」という島が存在しているとも記述されており、この流山国島及び于山島が鬱陵島本島の事を指すのか、それとも付属島である竹嶼や観音島の事を指すのかについては不明の状態である。
13世紀から16世紀にかけて、倭寇が鬱陵島を拠点にしたり、また鬱陵島の島民が倭寇を装う「仮寇」となって朝鮮半島本土を襲うといった事例が増えはじめており、1392年に成立した李氏朝鮮は成立前後からこれを脅威と見なし、1417年に鬱陵島島民の本土への移住を命じ、鬱陵島を無人島とする「空島政策」を実施する。
16世紀に成立した『新増東国輿地勝覧』(1530)や『新増東国輿地勝覧』(1530)「朝鮮八道総図」には、略図として鬱陵島の西側に鬱陵島とほぼ変わらない大きさの于山島が描かれているが、勿論これらは実際の鬱陵島の姿を正確に描いているとは言えず、上述の空島政策で公式な調査が行えない状態で、『高麗史』や『太宗実録』の記述を元に想像だけで鬱陵島と于山島を描いたものと思われる。
上述の通り、1693年に鬱陵島に渡航していた朝鮮人2名が日本に連行された事により、日本との間に竹島一件が勃発するが、この時日本に連行された安龍福が、朝鮮に送還後の1696年に日本への密航を企てて捕らえられており、『粛宗実録』粛宗22年(1696年)9月戊寅条によると、安龍福が捕らえられた際の備辺司(軍事を担当する官庁)の尋問の中で、
「鬱陵島で倭人(日本人)と出会い、『ここは朝鮮の領土だ』と恫喝すると倭人が子山島(竹島)に逃げたので追いかけ、更に倭人が逃げたので追いかけたが途中で狂風に遭遇して隠岐に漂着し、そこから伯耆州(伯耆国)に渡って島主(鳥取藩主)に会い、『以前来た時(1693年に日本に連行された時)に、鬱陵島と子山島までを朝鮮領と定めた書契を将軍からもらったが、書契の内容が守られていない』とせまったが返答がなかったので、伯耆国に行き、『以前来た時に将軍からもらった書契を対馬藩奪い取られ、その後対馬藩が横暴を極めているので将軍へ上訴文を提出したい』と訴えると、対馬藩主の父親が『それでは息子が死罪になってしまうのでやめてくれ』と言い、代わりに越境してきた15人の日本人(鬱陵島と竹島にいた者達)を処罰したので帰国した』
と証言したとされている。