概要
別称、千代田城。
徳川幕府の中枢として264年に渡り日本の政庁となり、明治以降は皇居として日本の中心に存在する。現在は西ノ丸に皇居宮殿や天皇の住まう御所などがあり、本丸ほかは皇居外苑として一般開放されている。
歴史
室町時代半ばの1457年に扇谷上杉氏の重臣太田道灌により最初の江戸城が築かれた。
戦国末期の1590年、豊臣秀吉の命により関東へ移封となった徳川家康が居城とした。当時は道灌の築城した小規模な城で建築物も荒廃した無残な姿だったという。
1603年、征夷大将軍となった家康により江戸幕府が開かれると現在の皇居及び周辺部を近世城郭に改造された。日本の政治の中心地として城域も大拡張され、当時江戸湾の一部であった現在の日比谷や銀座を埋め立て、山であった神田を掘削し外郭の堀を造成した。
白亜・鉛瓦葺の五層連立式天守も建造され、富士山と白さを競ったといわれる。二ノ丸には小堀遠州が内堀を内部に引き込み水上に釣殿を設けた優雅な御殿も造営した。
1622年、二代将軍秀忠の代に本丸拡張工事を行ない天守を撤去新造した。作事したのは三河大工で、名古屋城天守同様二重目に出窓を設け石落としとする意匠が見られた。
三大将軍家光の代である寛永期に完成し、三代目天守が新造された。壁面を漆で防火加工された「黒ふすべ」で覆われ、瓦も銅瓦(近年の考証ではこれも黒塗りの防火仕様だったとされる)と軒の金箔瓦で装飾され、黒と白と金の壮麗な天守であった。
本丸御殿も巨大な大屋根を持つ表御殿(儀典用の体面所)を中心に厖大な建築群が建設され、内部は狩野派による豪壮な障壁画で装飾された。
表御殿から将軍の執務空間である黒書院を結ぶ松の廊下は、江戸の有力商人を招いての能舞台観覧席にも使用された。
しかし、1657年に起きた明暦の大火で天守閣を含めた江戸城内の建物の多くが焼失した。天守外部は完全な防火仕様だったが、火災旋風により二層目の窓が吹き飛ばされたため気圧差で火炎が天守内部に乱入、内部から炎上したと考証されている。
大火後、4代将軍・徳川家綱の後見役を務めていた保科正之(3代将軍・徳川家光の異母弟)の決断により天守閣の再建を断念、城内の他施設や江戸市街の再建を優先することとなった。これ以降、江戸は「天守のない城下町」となるが本丸最南端の三階櫓、富士見櫓が長らく天守の代用となった。
また、大屋根を持つ本丸御殿も、平面構造は焼失前を踏襲しながら、大屋根を廃止し「ロ」の字型の小規模な建築で再建した。
その後も江戸はたびたび大地震や大火に見舞われ、幕末には二ノ丸外周の櫓、門、多門櫓、将軍隠居後の住居である西の丸を除いて、本丸以下ほぼ廃墟と化していた。
1868年、戊辰戦争で官軍が江戸に向けて進軍すると幕府側・勝海舟、官軍側・西郷隆盛の交渉により江戸城は無血開城、明治天皇の江戸行幸以降は、辛うじて焼け残っていた西の丸に入城し、以後宮城、戦後の呼称では皇居(東京城)となった。
その後残っていた外郭諸門、本丸北面、二ノ丸外周の門などは破壊されたが、破壊を惜しんだ太政官少史・蜷川式胤は、1871年(明治4年)に遺構を写真撮影している。
外郭の諸門(内郭と合わせ江戸三十六見附と俗称される)も破却され、現在では石垣を残す門も四谷門、飯田橋門、常盤橋門など少数となって市街に埋没している。
明治6年、下女による失火で西の丸御殿が焼失。その後も大正の関東大震災や昭和の東京大空襲により残っていた建造物の多くが失われている。
天守閣
- 天守閣再建は徳川吉宗の代などに何度か計画されており、立地割(設計図)も作成されたが、資金的な問題や「再建する意義が無い」とされ結局中止された。
- 時代劇でおなじみの「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」の時代にはすでに天守閣は無かったのだが、何故かわざわざ姫路城でのロケやCGを駆使してまで、天守閣が再現される事が多く、歴史に詳しくない一般層には、天守閣があった時代のほうが長いと誤解している人も少なくない。
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江戸城(御城プロジェクト):擬人化