天保3年(1832年) - 慶応3年11月18日(1867年12月13日)
来歴
播磨赤穂藩(忠臣蔵で有名だが、改易された浅野氏でなく2万石の森氏赤穂藩)の出身。通称は三郎兵衛。
『殉難録稿』に奸臣を斬って脱藩したとされる。江戸で生活を送っていた服部は懇意にしていた伊東甲子太郎が門弟だった藤堂平助の仲介で新撰組に加盟するのをきっかけに、元治元年(1864年)10月、伊東らと共に入隊した。
10月の編成では尾形俊太郎の五番組に属し、慶応元年(1865年)の春、諸士調役兼監察・撃剣師範を務めた。
同年11月、近藤勇の長州出張に伊東や篠原泰之進らと随行し、慶応2年(1866年)9月、三条制札事件では、目付役として活躍した。
慶応3年(1867年)3月、伊東は思想の違いから同士らとともに御陵衛士を結成し新撰組を脱退し、服部も当然ながら御陵衛士に参加した。
同年の11月18日、伊東は近藤の妾宅での酒宴に誘われ、近藤、土方と会談。その帰り道の油小路にて待ち伏せていた大石鍬次郎ら数名の隊士に襲撃され命を落とす。
その後、伊東の遺体を引き取るため服部は藤堂や篠原ら7名と共に油小路へ向かいそこに待ち伏せていた新撰組40名と交戦した。(油小路事件)
服部は得意の二刀流で奮戦し、民家を背にして激戦し、新撰組にも多数の負傷者を出したが最期は服部の大刀が折れたスキを狙った原田左之助の槍を受け、討死した。(この時両手に刀を握ったままで大の字になって斃れた)享年36
この事件で服部の他にも藤堂や毛内有之助が討ち死した。
人物
- 大柄で剛力、二刀流の達人でもあり、隊内では一二を争う程の使い手として名を馳せていた。止めを刺したと言える原田も「服部は強いとは聞いていたが、あれ程出来るとは思わなかった」という内容の言葉を残したという。(沖田や永倉、斎藤よりも強かったとも)
- 油小路事件では、暗殺された伊東の遺体を引き取りの際、黙ってただ一人密かに鎖帷子を着ていた。
- 事件後の現場を目撃した桑名藩士・小山正武は服部の勇敢な死に様を称えている。
- 闘死後に懐には教養人の多い御陵衛士の一人らしく嗜んでいた詩文稿があったが血に塗れて読むことは出来なかったという。
- 最後の戦闘では腰に馬提灯を差し、背後を壁に預けて、暗闇の中で一人で多勢を相手取る態勢を取り、提灯の灯りに入った相手を片っ端から斬り払っていたという話もある。
登場作品
小説
子母澤寛による新選組伝説を一般に広めた作品であるが、服部武雄の奮戦もこれに漏れず記載されている。
主人公の吉村貫一郎を御陵衛士に誘うほど親しく、油小路事件では奮戦するも、貫一郎にけじめとして討たれる。鎖帷子を着た相手には突きが有効な事は理解していたが、多人数を相手にしての突きは相手を刺して抜くまでのタイムラグが致命的なものとなる死に太刀でもあり、それが出来た貫一郎と出来なかった服部の差が勝敗を分けており、その服部の無念を貫一郎は語っている。
ドラマでは阿藤快が演じていた。
漫画
北海道編の回想に登場。
特徴的な髪型と目、そして異様な巨体を持つかなりインパクトのある容姿をしている。二刀流を得意とする。
丁寧な口調をしているが、その実力は凄まじく、斎藤一と永倉新八が二人がかりでも相手にならず、原田左之助が不意討ちした上で三人がかりでようやく倒せたほどの尋常でない猛者。
その強さは伝説であり、斎藤と永倉に「化け物」と言わしめており、永倉が「二刀流は強いと相場が決まっている」という台詞の理由の一つになっている。
そして、強い信念、叡知、穏やかで高潔な心を持ち、最初から新撰組の襲撃を予想した上で自らが仲間のために囮になる前提で鎖帷子を装着していた。
今際の際に斎藤に「今まで斬り捨ててきた相手は、果たして本当に悪だったのか?」と「悪・即・斬」の真価を問い、北海道編の時点でも斎藤は服部の問いに答えを出せていない。
服部の死は、阿部十郎たち残された者にとって大きな悔恨であり、敵だった永倉と斎藤も服部への敬意を忘れていない。