天保10年(1839年)?~慶応4年1月6日(1868年1月30日)?
本名は嘉村 権太郎
経歴
盛岡藩目付の嘉村弓司(後に瀬兵衛、弥次兵衛)の子として生まれる。兄は嘉村矢柄祐尚(後に良右衛門、瀬平)で、二百石六人扶持。加番組番子組頭、向中野見前通代官などを務めた。
文久2年(1862年)12月に同藩重臣遠山礼蔵の軍役人数として江戸に出、元治元年(1864年)2月には北辰一刀流の千葉道三郎に入塾したが、慶応元年(1865年)1月、27歳の時に盛岡へ下向を命じられると、同月16日には出奔した。その後、「吉村貫一郎」の名で新撰組に入隊した。新撰組では諸士取扱役兼監察方および撃剣師範などを務め、同年11月4日、大目付永井尚志の長州詰問使として近藤勇、武田観柳斎、伊東甲子太郎、山崎丞、篠原泰之進、芦谷昇、新井忠雄、尾形俊太郎、服部武雄らと広島まで随行した。
近藤らの帰京後も山崎と広島に残留したものと思われ、第二次長州征討中の慶応2年(1866年)6月14日、小瀬川口の戦いで、彦根藩と高田藩が敗北した状況を翌15日付けで報告した記録がある。
慶応3年(1867年)6月15日、吉村と山崎が当時屯所だった西本願寺と交渉することによって、不動堂村への移転が決まった。同月23日付けで幕府より見廻組並に取り立てられた。翌24日には、山崎、土方歳三、尾形らとともに、議奏柳原光愛に国事について面談を願い出ている。 大政奉還後の11月頃には薩摩藩家老小松清廉の動向を探り、同月18日の伊東甲子太郎暗殺の際には山崎らとともに盛宴を張り、伊東を酔わせる役回りを引き受けたという(油小路事件)。
12月7日の天満屋事件では紀州藩の三浦休太郎護衛の任に付いていたとされている。
慶応4年(1868年)1月3日奉行所に立て籠もり、続く鳥羽・伏見の戦いにて戦死したとされるが明確な忌日や死亡状況は不明である。
また西村兼文の話だと吉村は大坂へと逃下り、当時網島?にあった南部藩の仮宅に行き、そこの留守居某と旧知であったので、これまでは幕府のために尽くしていたが、これからは勤王を主とするので暫くの間匿ってくれと頼んだところ、留守居は憤激して、国を脱し新撰組に入り、幕府のために身を尽すとなったのに今更勤王のために尽すとなっては誠意がない、幕府が衰えているからといって変心するのは不義であるから士道を立て割腹せよと諭されたため、切腹したと記している。
創作の吉村貫一郎
吉村貫一郎といえば浅田次郎の歴史小説「壬生義士伝」で有名だが元々は西村の記述をヒントにした子母澤寛の『新選組物語』「隊士絶命記」による創作が元になっている。
子母澤の描く吉村の姿は以下の通りである。
三十七、八歳。痩せ形で背が高く、左の目の下に小さな傷跡があった。おとなしい性格で学問があり、剣術も使えた。特に書をよくした。盛岡藩出身の微録の扶持取りで、漆掻などをして妻子五人を養っていたが、どうしても食えないので妻と相談の上、文久2年に脱藩し、単身で大坂に出た。その後も仕送りは続けていた。翌年に新選組が京大坂で隊士の募集を行ったのを聞きつけて、応募した。金の為、ひいては盛岡に残る妻子の為に危険な任務も厭わず、人を斬り続ける。いつしか彼は「鬼貫」と呼ばれ恐れられ、ある時は「守銭奴・出稼ぎ浪人」と嘲笑われた。見廻組並に選ばれた時、土方より三十俵二人扶持を頂き、うれし泣きをした。新選組が伏見奉行所に引き移る際に貰った百両を妻子に届けた。鳥羽・伏見の戦いの後、味方にはぐれ、新選組が大坂を離れている事を知った吉村は網島の盛岡藩仮屋敷に身を投じ、留守居役の大野次郎右衛門(架空の人物)を前にして、勤王のために奉公したいと言うが、結局は妻子を養ってくれる俸禄が欲しいだけであり、妻子に忠義を尽すのだと吐露する。大野は君は武士の魂をもっていない、南部武士にこのような人がいるのは、わが藩末代までの恥だと言って、外に出ればすぐ縄目が掛かるからと、切腹するように仕向けたので、吉村は屋敷内で腹を切った。その部屋の床の間には、小刀と二分金十枚ばかりの包みが置いてあり、傍らの壁には「此弍品拙者家へ……」と記してあった、という。
この後に浅田次郎は上記子母澤の創作を下敷きにして歴史小説『壬生義士伝』を執筆した。
吉村が主役の作品
- 『幕末の親父』(水木しげる)
- 『壬生義士伝』(浅田次郎)
映像作品
- 壬生義士伝~新選組でいちばん強かった男~(2002年)
演:渡辺謙
- 壬生義士伝(2003年)
演:中井貴一
宝塚歌劇団
演:望海風斗