概要
「局(つぼね)」とは、中世日本においては主に皇室や公卿などに仕えた、重要な地位にある女性に授けられた名号・敬称であり、一口に「◯◯局」と言っても、そのように呼ばれていた女性については歴史上複数人存在することが多い。
「阿波局」についてもそのうちの一つであり、本記事で取り扱う鎌倉初期の北条時政(鎌倉幕府初代執権)の娘以外にも、ほぼ同時代だけで3人も阿波局と呼ばれた人物が存在する。
Pixiv上では、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(2022年)の影響もあり、同作の登場人物で阿波局に相当する「実衣」(演:宮澤エマ)を扱った作品のタグとして用いられることが殆どである。
北条時政の娘としての「阿波局」
生 没:生年不詳 - 嘉禄3年11月14日(1227年12月13日)
本 名:不詳
父 母:北条時政(父)
子 女:時元、藤原公佐室
その生涯については不明な部分も多いが、建久3年(1192年)に源頼朝の次男として千幡(源実朝)が生まれると、その乳母を務めたことが記録されている。頼朝の死後、御家人の間で凄惨な権力闘争が繰り広げられることとなるが、阿波局も実朝の乳母という立場もあり、少なからずその渦中にあったものと見られている。
頼朝薨去から半年あまり後の正治元年(1199年)10月、頼朝の側近の一人であった結城朝光が、些細な一言から謀反の疑いをかけられるという事件が発生。その際阿波局は朝光に対し、彼を讒訴したのが梶原景時(侍所別当)であり、既に殺されることになっていると告げ、この阿波局の行動をきっかけとして朝光や三浦義村ら主だった御家人らが景時糾弾に動いて連判状を幕府へと提出。景時の失脚と梶原氏の族滅という事態までも引き起こすに至った(梶原景時の変)。
景時の没落後も、将軍・源頼家の外戚として権勢を強める比企氏と、実朝を擁しながらも一御家人という立場に甘んじていた北条氏が対立を深めていたが、その最中の建仁3年(1203年)5月、阿波局の夫であった阿野全成が頼家より謀反の嫌疑をかけられ、殺害の憂き目に遭った。この時阿波局にも逮捕の手が伸びようとしていたが、姉の政子の計らいで難を逃れている。
またこの直後に発生した比企氏の族滅(比企能員の変)に際し、継母の牧の方の「悪意」を理由として、時政の館に実朝の身柄を置いておくことへの不安を政子に伝えており、結果として実朝は政子の館へと引き取られている。
史料上において、その後の阿波局の動向を示す記述はほぼ皆無であり、嘉禄3年の逝去時に時の執権・北条泰時(義時の嫡男、阿波局の甥に当たる)が30日の喪に服したことが確認されているのみである。
その逝去より以前、建保7年(1219年)に阿波局所生の男子である阿野時元も、やはり謀反の嫌疑によって誅殺の憂き目に遭っているが、もう一人の子である娘が公家の藤原公佐の元に嫁いでおり、その子孫が後に阿野の名を称し現在に至るまでその名を伝えている。鎌倉末期から室町初期にかけて、後醍醐天皇の寵妃として建武の新政を支えた阿野廉子もこちらの阿野家の子孫の一人である。
「もう一人」の阿波局
前述の通り、同時代だけでも複数人存在する「阿波局」であるが、そのうちの一人として挙げられるのが、前出の北条義時の妻(もしくは妾)である女性である。
元は御所に仕える女房の一人であったこと、それに泰時の生母であったこと以外、今なおその出自などを裏付ける記述は殆ど確認されておらず、同時代の人物であることから史料によってはここまでに解説してきた、北条時政の娘の方と混同される場合も少なくはない。
前出の『鎌倉殿の13人』にも時代考証として関わっていた坂井孝一は、不明な点が多く推論の域を出ないことを前置きした上で、この義時の妻である阿波局を、源頼朝の最初の妻であった八重姫(伊東祐親の娘)と同一人物ではないかとの仮説を提示しており、『鎌倉殿の13人』でもこの仮説を取り入れる形で、「義時の妻」としての阿波局に相当する人物に八重姫が充てられている。
また同時にこの縁組の背景として、義時が平家方に与した江馬次郎(小四郎、祐親の三女(八重姫)の再嫁先とされる)に代わって伊豆の江間荘を領有したことがあるのではないか、とも推察している。