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大元の編集履歴

2023-05-06 05:01:41 バージョン

大元

だいげん

クビライ登位以降のモンゴル帝国の中国王朝としての呼称。大元ウルスとも。

建国

第5代モンゴル帝国皇帝クビライによって再編された、モンゴル高原と中国にまたがる帝国の呼称。


クビライの即位にあたる内紛から、モンゴル帝国は各地域の自立と分裂が進み、大元は中国を中心に東アジアを支配する元朝に変貌した。


建国

クビライ(世祖)が弟のアリクブケと皇位を争う中で、1264年にそれまでのカラコルムから大都(北京)に都を定め、1271年には国号を中国風に大元と称した。1279年南宋を滅ぼし、中国全土を支配した。


この過程で中央アジアのオゴデイ家やジョチ家の政権が離反し、従来のモンゴル帝国は解体して大元を中核とした緩やかな国家連合に変質していく。


行政

大元は支配層のモンゴル人、多数派の漢民族以外にも多くの民族を包括した多民族国家であった。


かつては身分制を敷き、漢人(旧金朝の人民)、南人(旧南宋人)を差別したとされていた(モンゴル第一主義)が、実際にはどんな人々も分け隔てなく、才能あれば登用したとされる。なお、科挙はこの時代は廃止されていた。


行政は従来の中国王朝式の制度が採用された。地方統治には行中書省が行ったが、これが現在に繋がる省制度のもととなる。


文化

それまでの中国文化は途切れず、漢詩や書画などの制作は宋代に引き続き盛んだった。中でも雑劇と呼ばれる戯曲の評価は高く「元曲」と称される。『西遊記』、『水滸伝』や『三国志演義』などはこの時代に原型が出来たとされる。宋代の高い技術を受け継いだ陶磁器は世界各地に輸出された。


皇帝は多宗教を擁護した。皇室が崇拝していたチベット仏教のみならず、禅宗イスラム教ネストリウス派のキリスト教も庇護を受け、その寺院が多く作られた。しかし、やがて王族や貴族の間でチベット仏教が影響力を拡大し、皇帝がラマに過大な特権を与えたり宗教儀礼のために過大な出費を行ったことが帝国滅亡の一因となった。


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モンゴル帝国 元朝 中国王朝

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