西太后
せいたいごう
概要
通称:西太后(せいたいこう〔ごう〕)〈孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后〉
正式名:慈禧太后(じきたいこう・ツーシーコウゴウ)
満州・旗人(鑲藍旗人)の葉赫那拉氏の出身。
清朝の咸豊帝に嫁ぎ、同治帝を生む。清末期の前人未到の女最高権力者。
中国の人に西太后と聞いても通りが悪く、慈禧太后と言った方が良いようだ。
18歳の頃にダメ帝こと咸豊帝の側室に選ばれる。正室に選ばれたのは東太后。後のライバルである。
咸豊帝の死後、西太后の子・同治帝が6歳即位。太上皇帝と同じ位である太后を名乗り、後見人として東太后と共に最高権力者となる。
同治帝は口うるさい西太后よりも、東太后が推薦した娘を選ぶようになってしまう。鬼姑の西太后は同治帝の嫁(皇后)をいびるようになる。同治帝は両者の板挟みになり、それを紛らわすため色街遊びにふけり、梅毒(天然痘とも)に罹ってしまう。
病床についた同治帝にトドメをさすように、西太后は皇后の髪をつかみ殴り倒していた。あまりの光景に同治帝はショック死したと言われている。西太后は死因をすべて皇后になすりつけ、間もなく皇后は急死。
その後甥にあたる光緒帝が即位。光緒帝は3歳で、またも西太后と東太后が補佐する形となる。政治は西太后の一人舞台となり、この状況に眉をひそめた東太后は「切り札」を発動しようとする。
故・咸豊帝の遺した「西太后を制裁できる勅論」である。しかし、東太后は西太后に対し、この勅論のことをポロリと話してしまう。
この勅論の存在を知った西太后は東太后に危機感を覚え、あの手この手で東太后のご機嫌を取るようになる。東太后の具合が悪くなった時には自分の太ももの肉片で作ったスープを差し出すほどの献身っぷり。(日本人からすると奇妙に思われるかもしれないが、中国では病気の親に自分の股を切って肉を食べさせると病気が治る『割股』という迷信が存在し、最高の孝行の一つとされた)
西太后のこうした振る舞いに感動した東太后は、西太后の目の前であろう事か勅論を燃やしてしまう。その数日後、東太后は病死する(死因については西太后の毒殺説もある)。
17歳になった光緒帝は野心と情熱に溢れた青年だった。外国文化や法律を積極的に取り入れ、古い伝統を改革しようとしていた。光緒帝の改革派にとって西太后は目の上のコブ。
ついに光緒帝は西太后の幽閉計画を企てる。
が、先手攻撃を仕掛け西太后は逆に光緒帝を監禁した。
この事件を境に再び権力者になった西太后は「邪魔者を消さないと自分の立場が危うい」と、攘夷に取り組んでいた義和団を奨励する。
「外国人1人を殺せば銀50両(日本円で約250万円)出すわよ」
という政策を実施。ついに列強国(英・米・露・仏・独・澳・伊・日)に対して宣戦布告。世にいう「義和団事件」である。
列強国相手に勝てるハズもなく、2ヶ月後に北京は陥落。西太后は庶民に隠れ逃亡。この時西太后に意見した光緒帝の妻・珍妃は井戸に押し込まれ殺害される。
1908年、光緒帝の死の翌日に死去。享年74歳。
ちなみに西太后は光緒帝に少しずつ毒を盛り、自分より早く死ぬように仕向けたという説がある。
彼女の死後数年で、清王朝は滅亡の時を迎える。
冠位は太上皇太后〈太上皇帝の上の官位〉
創作では
日本で彼女を題材とした作品として有名なものとしては、浅田次郎『蒼穹の昴』があげられる。
本書での西太后は、史実での豪奢な面や権力者としての面も描かれつつも、傾きゆく清朝を支え続け、そして清朝、ひいては皇帝という仕組み自体を自らの代で終わらせることを決意した女性として描かれている。