概要
清朝末期の1890年頃に、山東省の農民を中心に立ち上げられた秘密結社の一つ。
白蓮教の流れを汲む民間宗教結社の一つであったとも、あるいは団練という地方官公認の自警団が前身であったとも言われ、「義和拳」(ぎわけん)という空手のような拳術を習い、呪文を唱えると神通力を得て刀や鉄砲で襲われても決して負傷することがないと説くと共に、「扶清滅洋」(※)のスローガンの元、当時広がりを見せつつあった欧米列強やキリスト教勢力への排外主義を掲げることで、民衆や遊侠の者達からの広い支持を集めた。
(※ 「清朝を扶(たす)け、西洋人を撃滅する」という意味)
背景
当時の清は、19世紀半ばに二度に亘って勃発したアヘン戦争を経ての、外国人宣教師の跋扈で国内においてもクリスチャンの勢力が拡大する一方、現地社会の慣行などを無視した彼等の行状に対して反発が強まっていた時期でもあった。
このような状況にもかかわらず、清朝は欧米列強と締結した不平等条約によって外国人宣教師やその信者達に有利な裁定を下さねばならず、民衆の間では欧米列強への反発のみならず、清朝への不満・失望の念が次第に醸成されていくこととなる。
義和団が発生した山東省も、当時はドイツの進出が目立つようになり、当地における熱烈な布教活動は当然のごとく民衆からの排外的な感情を引き起こす結果となった。
そうした動きの中で、民衆が頼ったのは公権力ではなく、「大刀会」や「梅花拳」などといった在地の武術組織であり、これら各地に散在していた組織が次第に統合される形で誕生したのが「義和拳」と呼ばれる勢力であった。
これらの組織は元々強い宗教的性格も有しており、斉天大聖や諸葛亮などといった民衆にも馴染みのある「神」を奉ることで、より広範な支持を獲得していったのである。
カトリック教会の破壊や神父の殺害といった、過激な行動に出ることも多かった義和拳であるが、一方で当時の山東省の地方大官はどちらかと言えば彼等に同情的な姿勢を示しており、取り締まりではなく団練、即ち公認の自警団として扱おうとすらした程である。
義和拳が「義和団」と呼ばれるようになったのも、こうした事情が絡んでいたと見られる。
勢力拡大と宣戦布告
義和団の勢力は急速な拡大を見せていった一方、欧米列強からの抗議により度々弾圧の対象ともされたが、却って山東省だけでなく直隷省――即ち北京と天津の間の地域にまで拡がる格好となり、その攻撃の対象も外国人やキリスト教信者に留まらず、彼等が清へと持ち込んだ様々なものにまで拡大。
鉄道や電信といったインフラは破壊され、石油ランプやマッチなどの外国製品やそれらを扱う商店もことごとく焼き払われた。
前述の通り、欧米列強からの要求を汲んでいた清朝の中にも、「扶清滅洋」という清朝寄りのスローガンを掲げる義和団に理解を示し手心を加える大官も少なからずおり、時の最高権力者であった西太后もまた、内政干渉を強める欧米列強の存在を苦々しく思っていたことから、次第に義和団へと心を寄せるようになっていったと見られる。
こうした中で、1900年にはおよそ20万人もの義和団が北京入りし、やがて彼らが北京に駐在していた外国公使の一部を殺害するという事件が発生。
これにより義和団と列強との間で緊張が走る中、同時期に発生した大沽砲台の引き渡し問題などさらなる内政干渉、それに反発する清朝内の排外勢力の活発化、そして彼らによる列強寄りの勢力の排除など、様々な思惑や鬱憤が絡み積み重なった末に、ついに同年6月末に清朝も正式に列強に対して宣戦を布告。
義和団を支持する清朝と、列強連合軍との間での戦争、即ち「義和団の乱」が勃発するに至った。
義和団の乱は最終的に、列強連合軍の勝利という形で幕を下ろすこととなるが、その過程で義和団も清朝による「拳匪」(あるいは「団匪」)の認定を受け、事実上反乱軍として切り捨てられる格好となった。
それまで「扶清滅洋」をスローガンとしてきた義和団も、こうした清朝の姿勢に失望し「掃清滅洋」(清を掃い洋を滅すべしの意)へと方針を転換するに至るも、やがて連合軍による数々の掃討戦を経て、その勢力は衰退の一途を辿っていったのである。