表記
- Romanorum(ラ)ローマニュマ二ヌス
- ローマ人(日)
- 羅馬公民(中)ロマコウミン
- Римский(露)アリンスキ
- Romain (フ)ホーマン
- Poman (イ)ロマーノ
- Römer (独)ルーマン
- Ρωμαϊκή (希)ロマンティ
- հռոմեացի (アルメニア)トゥーモミャンシィ
- الروماني (アラビア) ダゥロマーニ
概要
古代ローマにおける『元老院とローマ市民』を構成しの支配を受ける人々。ロマヌスともいう。
人種としてはラテン人の部類から始まる。注意するべきなのは原初のローマ民族(人)においても正当な血筋のローマ人というものは存在していない。
ローマ人の始まりはアイネエスの兵士から
ローマ人の始まりは古代ギリシャ時代の都市国家ミュケナイ(総大将:ミュケナイ元首アガメムノン)と都市国家イリオス(トロイ)との戦争で敗北したトロイの将軍アイネエス(神)がイタリア半島にまで逃げ延びた時につき従った兵士今のローマのあたりで集落を作りそれが後世の『ローマ人の氏族』とされている。この時期はローマ神代時代である。
ここが間違えやすいのだが、アイネエスが集落を作った場所の神代の国家はアルバ・ロンガという都市国家である。(ローマ集落)は当初アルバロンガ支配地域に入っていたようである。 後代の作り話でアイネエス(神)はアルバ・ロンガ元首とされた。
都市アルバ・ロンガから独立した建国者ロムルス
ローマ神代時代の終わりころローマ神話の、軍最高司令神マールスの子としてアルバロンガで生まれたロムルス(神)とレムス(神)の兄弟が、アルバ・ロンガ政治のの内乱を鎮め自身がアルバ・ロンガ元首となった。
その後ロムルス兄弟は都市国家アルバ・ロンガからローマ集落のあたりに新たに都市国家を建設することにした、ロムルスはローマ王となりこれが後代の都市国家ローマのことになるが、ロムルス存命中は「ロムルスの町」という表記であった。ロムルスが崩御した後ローマとよばれるようになった。ここの都市に住むものが『ローマ人・市民』という認識になっていったようである(当然、奴隷はローマ人・市民ではない)
ローマ膨張期~共和制
『ローマ人』は7代約300年続いたで王政(ローマ王)を廃すると、500年続く共和体制に入ることになったこの500年の間にローマは試行錯誤を繰り返しながらなんと地中海世界を牛耳る勢力となっていた。しかしこの時点での『ローマ人』はイタリア半島とカルタゴの一部住む者たちであり他はすべて奴隷民であった。
元首制
紀元前100年に入ると民衆派と元老派の対立がついに武力を使った内乱へと発展ここに元老院を中心とした共和制は崩壊した。 その後カエサルとアウグストゥスの活躍によりローマ市民が変化に築かないうちにローマの体制が元首制を頂点とした世界となった。
アウグストスは史上初めて常備軍のローマ帝国軍を創設し帝国各地の属州から人員募集する時の特典として25年間ローマ軍に努めればそのご家族と末代までローマ市民となれるようにした。この特典は属州民には結構希望に見えたようでローマ市民の構成が共和制以上に多人種・多文化になっていった。
元首中期~アントニウス勅令
しかし元首制を初めて200年もたつとローマ市民と属州民の同化が進むと。こんどはローマ市民になることへの魅力が薄れ始めた。ローマ市民はいろいろ権利があると同時に軍務・多税などの思いものも多かった。
209年の時の元首カラカッラは、(通称:アントニウス勅令)をだし、ローマ全土の人間にローマ市民権を与えた。これにより属州民・従来のローマ市民の垣根は越えた。けっして奴隷がいなくなった訳ではない。
元首後期~東ローマ
ローマ時代後期の軍人元首政や四分統治の後コンスタンティヌス1世によるキリスト教解禁やテオドシウス1世によるキリスト教国教化により、ローマ人はキリスト教徒となった。 それとキリスト教世界の正統な民=ローマ人という観念も生まれ始めた。
西側ローマ
ローマ東西分裂後、西ローマ帝国ではゲルマン人やフン族・アッティラ軍団の攻勢を抑えきれ無かった西側ローマは、緩和策としてゲルマン人にもローマ人籍を与えたりした。しかしこれは与えたというより、居座っていいからこれ以上暴れないでくれという意味合いが強い。これにより西側ローマの政治中枢はゲルマン人などが要職を占めるようになっていった。 しかし結局4世紀に西側ローマはゲルマン部族首領オドケアルが少年元首ロムルス・アウグストゥルスに退位させ、西側ローマ文明は終焉した。
後のドイツ人国家の神聖ローマ帝国などで神聖ローマ皇帝が即位する時には『ローマ人の皇帝万歳』という文句がついた。
東ローマ
東ローマ帝国は西側ローマが4世紀に滅亡した後もその後1000年に及び存続したその時にはローマ人の人種がギリシャ人やアラブ人・スラブ人の一部などに変遷していったが、自身の国が『ローマ』であることと『ローマ人』であることは滅亡しようとするときでも揺るがなかった。
東ローマ帝国滅亡後、オスマン帝国がビザンツ領に版図を広げた時に、時代のオスマン皇帝がローマ皇帝を名乗ることがしばしばあった。