概要
1992年に函館市制70周年を記念した事業の一環として、ササラ電車として使用されていた排2号を旅客車30形39号へと復元した路面電車。
函館ハイカラ號の愛称で親しまれており、多くの観光客の人気を集めている。
ここでは本形式が辿ってきた歴史も併せて紹介する。
なお、2024年現在における本形式の運行事業者は函館市企業局交通課であるが、本項タイトルでは以前の名称である函館市交通局の呼称を用いることとする。
略史
成宗電気軌道
本形式のルーツをさかのぼると、1910年に天野工場(のちの日本車輌東京支店)にて、成宗電気軌道(のちに現在の千葉交通へ統合)向けに15両が製造された電車の1両にあたる。
成宗電気軌道とは、成田山新勝寺と宗吾霊堂との間を成田駅経由で結ぶ、軌道系交通機関として計画されたもので、反対運動などの紆余曲折を経て開業に至ったものである。しかし開業前に軌道の作業場から出火し、それが宗吾霊堂や周辺民家に引火したことで、地元が電気軌道に対し懐疑的になったことから、利用者は少なく苦しい経営であった。また協力者が事業に失敗したことで援助が得られなくなり、折からの第一次世界大戦の影響で鉄材の価格が高騰したことから、これに便乗して軌道事業の廃止を検討するようになった。
しかし地元から猛反対が起こったため、千葉県知事の仲裁で複線の単線化や余剰車の売却を行い、ひとまずは経営を立て直すこととした。このさいの1918年に余剰車として放出された5両を、当時の函館水電が車両増備のために購入したことが、本形式が函館で活躍するきっかけとなった。
函館水電移籍後
函館水電入りした成宗電気軌道の車両は10形の36号-40号へと整理され使用が開始されたが、1926年1月に生じた新川車庫の火災にて37号と40両の2両を焼失してしまう。続いて発生した1934年の函館大火では36号と38号も焼失してしまい、結果として39号のみ残存した。
その後の1937年に除雪車の運行認可を受けたことで、39号は(ササラ電車)へと改造されることとなり、以後は排形排2号となった。
ササラ電車時代
ササラ電車化にあたり、車体前後の運転台部分が取り払われ、死重やササラが取り付けられたほか、車内にササラを動かすための装置類や新たな運転台などが取り付けられた。
本形式はササラ電車時代に、どこかしらのタイミングで台車を元々履いていたマウンテン・ギブソン製からブリル製へと交換しており、鉄道友の会北海道支部長だった北海道大学教授の小熊米雄氏の現車調査では、少なくとも1963年までは元の台車を使用していたという。
旅客車への復元
1992年に市民団体の働きかけもあり、函館市制70年を記念して復元電車を走られることとなり、排2号がその種車に選ばれた。復元工事は札幌交通機械で行われ、元の車体を撤去し、現代の基準に適合した新たに製造した車体へ載せ替えられた。旅客車時代の内装や藤製の吊革が復元されたほか、屋根上にはダミーのトロリーポールが取り付けられた。形式は元々名乗っていた10形ではなく、附番されていた39号から新たに30形と付けられている。
復元終了後の1993年から「函館ハイカラ號」として、再度営業運転を行っている。復帰後は松風町停留所-谷地頭停留所または函館どつく前停留所間での運転であったが、1995年に五稜郭前停留所、2007年には駒場車庫前停留所まで延長されている。
2010年には生誕100周年を迎えたが、車体は1992年製のものであり、台車もオリジナルのものではないことから、テセウスの船状態であるといえる。
運用
毎年4月中旬から10月中旬までの期間における土曜、日曜、祝日で、上述の函館どつく前停留所-駒場車庫前停留所間ならびに谷地頭停留所-駒場車庫前停留所間において運転されている。
ただし函館マラソン開催日や函館港まつりの開催日は運休になるほか、天候によっては運転されない場合があるため注意。
また函館港まつり期間中に開催されるパレード「ワッショイはこだて」にて、本形式も花電車として装形とともに参加することもある。
運転期間中は、本項の関連リンクにあるロケーションシステムを利用して、乗車予定の停留所におけるだいたいの到着時間等を確認することが可能である。
関連イラスト
関連タグ
電車でGO!…旅情編にて本形式の運転ができた。