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東急車輛製造の編集履歴

2024-09-16 04:39:05 バージョン

東急車輛製造

とうきゅうしゃりょうせいぞう

東急車輛製造は、かつて存在した日本の鉄道車両製造メーカー。不動産賃貸業を行う部門のみが残っていたが、最終的に東京急行電鉄本体に合併され解散している。

概要


かつて存在した日本鉄道車両製造会社。東京急行電鉄東急)の完全子会社であった。


1948年(昭和23年)に設立。

親会社の東急電鉄を始めとした首都圏のJRや私鉄各社の通勤形電車の製造実績が多い。また、国鉄時代は0系新幹線、民営化後はJR東日本新幹線電車の受注実績もあるほか、かつて帝国車両を合併した経緯から、南海電鉄の車両も製造していた(最新鋭の8300系など一部車両は近畿車輛製)。本社及び工場は横浜市金沢区の京急線沿いにあり(金沢文庫駅金沢八景駅間)、工場内から京急逗子線を経てJR東日本横須賀線の逗子駅までの車両回送線を有する。


日本最初のステンレス使用車両である東急5200系及び最初のオールステンレス車両である東急7000系はいずれも当社製。各1両が工場構内に保存されている。

以前はモノコック構造の私鉄高性能電車の先駆けの一つ、初代5000系も工場内に保存されていたが、台車なしのカットボディにされた上で渋谷駅前での保存を経た後、秋田県大館駅前の観光交流施設「秋田犬の里」に移設された。


元々のステンレス車両の製造ノウハウはアメリカのバッド社から提供を受けたものであった。しばらくはバッド社基準通りに制作していたが、日米での車体の強度基準の違いや荷重計算の進化からこの構造では重すぎると考え出したことが、東急車輛が独自の「軽量ステンレス車両」を開発する契機となった。その後アメリカのAAR1級鉄道での圧縮基準(前後方向に80万ポンド≒362.4tf=3555kN)を満たすものまで製造可能になっている。

(国内分においては少なくとも昭和の頃は明確な基準値はなかったようだが、概ね国鉄の在来線電車・客車は100tf(980kN)、各車に動力のある気動車と連結部に油圧緩衝器を持つ20系客車は50tf(490kN)の前提で作られている)

バッド社は「技術提携を行うのは1国につき1社のみ」とする姿勢をとっていたとされているため、当初はライセンス生産で他社にも製造させる、という知的所有権ビジネスではごく一般的な方法をとっていたものの、1985年に国鉄の圧力でやむなく無償公開に踏み切っており、東急車輛はこの件において相当の損害を被った。その補償の意味合いもあってか、国鉄は初のステンレス車である205系の多くを東急車輌に発注している。


令和の現在では鉄道車両工場関連全般において撮影が厳しくなっているが、東急車輛はそれよりはるか前から厳しいことで有名であった。これは先述の国鉄による知的所有権(軽量ステンレス車体)・意匠権(201系非対称デザイン:元は京急800形用に用意)の強引な開示を度々迫られた経緯や、海外受注が盛んであった時代、冷戦や外交的問題等で対立する国・地域の車両を同時期に受注していたことがあったことを鑑みれば合点がいく。


鉄道車両専業の製造会社としては、日本車輌 に次ぐ国内第2位の地位まで成長し、また関東に工場を持つ唯一の鉄道車両メーカーでもあったが、今後の人口減少に伴う旅客輸送量の頭打ちとそれに伴う市場の縮小、車両の長寿命化や標準化などを鑑み、東急電鉄としては鉄道車両製造事業は今後の成長産業ではなくなったと判断。同事業からの撤退を決断した。

2012年4月1日に東急車輌製造は事業譲渡をJR東日本に対して行い、新たに「総合車両製作所」通称:J-TREC(ジェイトレック)を設立、上記の本社や工場、付随する車両回送線等の資産設備は全て同社に譲渡された。工場周辺の不動産賃貸業を行う部門のみが残り、2014年に商号を「横浜金沢プロパティーズ」株式会社に変更したが、これも2016年に東京急行電鉄本体に吸収合併され法人組織そのものが消滅。東急関連会社として約58年に渡る長い歴史に幕を閉じた。


関連タグ

東京急行電鉄 JR東日本

日本車輌 日立製作所日立新潟トランシス 近畿車輛

金沢あるみ

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