概要
再軍備に向けてドイツ軍は1934年からI号戦車の生産を開始したが、同車は訓練用としてすら小型軽量に過ぎた。また、実際に主力となるべき3.7cm砲搭載の主力戦車の開発にもさらに時間がかかるものと見られたため、この間の『つなぎ』としてII号戦車が開発された。
II号戦車はI号戦車と同じく訓練と生産技術の習得を主目的とした戦車であったが、主力戦車配備までの『つなぎ』としての役割から、非力なI号戦車と変わってある程度の実戦能力も付加されていた。装甲はまだ貧弱だったものの、主砲は新鋭の2cmFlak30機関砲で、軽装甲であれば装甲車両も撃破できるだけの貫通力を備えた(もっとも大戦初期は20mmで貫通できない戦車の方が少なかった)。むしろ榴弾の発射も可能な20mm機関砲は高い火力と貫通力を兼ね備え、戦車以外に対しては非常に強力な武装だった。さらには単価の安さや技術的ハードルの低さもあって、参謀本部の中には「II号戦車を主力戦車とすべし」といった意見も発生した(対戦車攻撃力を重視するルートヴィヒ・ベックの反対もあり、最終的には当初の予定通りIII号戦車を主力とする方針が貫かれた)。
スペイン内戦においてI号戦車とともに実戦評価試験が行われた後、結局開発が間に合わなかったIII号戦車に代わってポーランド侵攻に主力として投入され、さらにIII号戦車の数がまだ出揃っていなかったフランス戦でも数的な主力として多数投入され、その軽快さを活かして大戦初期の電撃戦を支えた。ハインツ・グデーリアンは後に「まさかこれら訓練用戦車で大戦に突入するとは思ってもみなかった。」と語っている。
ポーランド戦後、III号戦車、IV号戦車の生産がある程度軌道に乗り始めると、II号戦車は偵察・連絡を主任務にするよう格下げされた。しかし慢性的な戦車不足に苦しむドイツ軍ではその後もしばらく数的な主力であり続け、バルカン戦線、北アフリカ戦線、独ソ戦と、II号戦車は既に非力となりながらも戦い続けた。
標準型としての生産は1942年まで続けられたが、この頃にはすでに戦車としての価値はほぼ失われつつあった。一方で、ドイツは装甲師団の大幅な拡張を始めており、その充足用に生産されたのだった。
その後もII号戦車の車台は様々な自走砲のベースとして終戦まで使用され続けた。