概要
I号戦車はその名の通りドイツが第一次世界大戦後に初めて量産した戦車である。
第一次世界大戦後、各国は先の大戦の膠着状態を打破した強力な新兵器である戦車に注目し、その開発を進めていたが、敗戦国ドイツはヴェルサイユ条約により戦車の開発、保有を禁じられていた。
しかし、ドイツは『農業用トラクター』の秘匿名称で密かに開発を行い、ソ連とのラパロ条約の秘密協定に基いて、国際監視の目の届かないソ連領奥地のカザン、リスベクに戦車学校を建設し、乗員育成や運用法の研究を行っていた。
1930年代初めにハインツ・グデーリアンらによって陸軍機械化構想がまとめられた。この構想は10~15トンの主力戦車、20トン級の支援戦車の2種を戦力の柱とするものであったが、それらの車両開発には長い時間が必要と考えられていたため、それまで生産技術の習得と訓練用を兼ねた軽戦車の開発が行われることとなった。同車は1934年に生産が開始され、1935年にヒトラーにより再軍備宣言が行われると、1936年にはI号戦車A型(Panzerkampfwagen I Ausf A)の制式名称が与えられ、部隊配備が開始された。
I号戦車は再軍備宣言後のナチス・ドイツの軍事力と軍事大国ドイツの復活を象徴する車両として軍事パレードなどで大々的に使用され、1936年には実戦評価試験を兼ねてスペイン内戦に送られた。しかし元々訓練と生産技術習得を目的とした本車は本格的な戦闘は考慮しておらず、装甲は非常に脆弱、武装もMG137.92mm機銃が二丁のみであった。本車はスペイン内戦においてその脆弱さを露呈し、さらに本来の使用目的である訓練用としてすら小型軽量に過ぎ、時を置かずにII号戦車が開発されることとなる。
第二次世界大戦開戦後は、慢性的な戦車不足に苦しむドイツ軍は苦肉の策として各戦線で本車を投入。大戦前半の各戦線で使用された他、自走砲や対空戦車、指揮戦車、弾薬運搬車に改造された車両は終戦まで使用された。
余談
中独合作によりドイツは中華民国への積極的な装備品の輸出を行っており、その中にはI号戦車の姿もあった。中華民国軍に配備されたI号戦車は日中戦争において南京防衛戦などで使用され、日本軍に鹵獲された車両が『ソビエト製の鹵獲戦車』として靖国神社に展示された。鹵獲車両が日本軍によって運用されたという記録もある。