歴史的・学術的な爵位の解説は非常に込入って複雑なので、専門書等を参照のこと。
ここではざっくりと解説する。
爵位は、ありていに言えば貴族の肩書ないしは格付けである。貴族は封建領主、すなわち土地の支配権を持つ集団から成立しており、土地の支配権についた肩書が爵位の名称となった。爵位間の格付けは、その称号を持った支配者が支配した土地の広さ、国王・皇帝との親密度に応じて上下関係が決められていった。貴族がほぼ消滅した19~20世紀の時点では、ヨーロッパ・中国・日本では、大まかに下記の5つ程度の格付けがあった。
※左の方が爵位は上となる。
※5つの称号の頭文字をとり「こうこうはくしだん」という言葉も存在した。
元が土地の支配権を示す語であったため、基本的には爵位の前には(形骸化していたとしても形式的に)領地の地名を付け、合わせて一つの肩書となっていた。ただ、中国では清代、日本では明治の華族に関しては、地名を付ける習慣さえ廃れ、公侯伯子男のみで貴族の格付けを示す称号となっている。
ヨーロッパ
ヨーロッパでは、古代ローマで元老院や要職を独占する貴族(パトリキ)はいたが、組織化された爵位のようなものはなかった。近代につながる爵位は、ほとんどが中世のゲルマン人が作った国における地方官や封建領主に由来する。
イギリス・フランス・スペインでは百年戦争後、レコンキスタ終了後の15世紀ごろ、ドイツやイタリアでは統一運動の起こる19世紀ごろに中央集権化が達成され、封建領主は実権を失っていき、貴族は国王の廷臣として議会の議席や公職を得る立場に変わっていき、爵位は単に貴族の格付けのみを示すのみに変容した。ただし、現在に至るまで爵位には領地の名前がセットになる慣習が継続しており、例えばイギリスの爵位の1つ「ヨーク公」というのは、ヨークという現在でもイギリスに存在する都市の土地を支配していたことに由来する。
中国
中国では殷周~春秋時代には領地(封土)を与えられた封建的領主が存在したが、始皇帝が中央集権国家を作ると、封建領主の肩書は形骸化した。しかしその肩書を貴族の格付けに使う慣習は残った。実例を挙げれば、後漢の魏公曹操、隋の唐国公李淵、唐の衛国公李靖らがいる。唐から宋にかけて科挙が機能するようになると、血縁による恒久的貴族はなくなり、爵位は勲功にもとづく栄典に近くなった。この例としては、宋の荊国公王安石、明の魏国公徐達らがいる。清代には地名を付ける慣習もなくなった。
日本
1884年7月7日の「華族授爵ノ詔勅」にて成立した5つの称号のこと。この勅令により称号を授かった家を「華族」と呼んだ。日本において「爵位」としてイメージされるのは概ねこの華族である。華族制度は1947年5月3日、日本国憲法により廃止となった。現在、これらの家々は「旧華族」と呼ばれている。
歴史的には、江戸時代の島津薩摩守、藤堂和泉守、鳥居甲斐守といった武家官位が「形骸化して格付けのための肩書となった土地支配者の称号」には近い。