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ジュリアーノ・デ・メディチ

じゅりあーのでめでぃち

ジュリアーノ・デ・メディチ(Giuliano de' Medici,)とは、ルネサンス期イタリア・フィレンツェ共和国の政治家。 美男子として知られ、石膏デッサン像の一人として有名。
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生涯編集

1453年3月25日生。1478年4月26日没。


父はピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ。母は女性詩人ルクレツィア・トルナブオーニ。

ジュリアーノは次男で、後にイル・マニィーフィコと呼ばれるロレンツォ・デ・メディチは兄にあたる。

父の死後、家業の銀行とフィレンツェ政府の運営を引き継いだ。

器量は悪いが人誑しのロレンツォと長身で美男子のジュリアーノは人々から慕われていた。


1478年4月26日朝、フィレンツェにあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ教会で、ピサ大司教だったフランチェスコ・サルヴィアーティとフランチェスコ・デ・パッツィによりロレンツォ諸共襲撃される。

ロレンツォは軽傷で済んだが、ジュリアーノは逃げ遅れたうえに共謀者だったバロンチェッリに刺殺され、更にパッツィによって滅多刺しにされた


兄弟が襲撃されたこの事件は、当時メディチ家と対立していた「パッツィ家」に因みパッツィ家の陰謀と呼ばれている。

当時のローマ教皇シクストゥス4世は野心家であり、イーモラの大公に甥を据えようと画策していたが、それを知ったロレンツォが融資を止めてしまった。

シクストゥス4世はパッツィ銀行に融資を頼み成立。首謀者のフランチェスコ・デ・パッツィはローマ支店の支店長だった。

首謀者であるサルヴィアーティとパッツィは激怒した市民に襲撃され、市役所の窓から吊るされた


人物編集

政治家として優れた手腕を発揮したが器量の悪いロレンツォに対し、ジュリアーノ・イル・ベッロ(美しきジュリアーノ)と評されたほどの美男子だった。

ロレンツォとの仲は良好だった様子。

ロレンツォは庇護していた彫金師のベルナルド・ディ・ジョヴァンニに、ジュリアーノの追悼メダルを作らせている。


愛人だったシモネッタ・ヴェスプッチはヴィーナスの誕生のモデルとされた美女であり、絵画モデルとしても有名だった。しかし肺結核を患い22歳で亡くなってしまう。

彼女の肖像画はメディチ家の庇護を受けた画家ボッティチェリによって描かれており、真作は東京都千代田区竹橋にある「丸紅ギャラリー」で鑑賞することができる。


アントニオ・ゴリーニの娘であるフィオレッタとの間に庶子のジュリオを設けていた。

彼女の顛末は記録がないが、ジュリオの出産間もなく亡くなった模様。

ジュリオは後に枢機卿に就任、従兄のレオ10世の後を継ぎクレメンス7世として教皇に就任した。


関連タグ編集

石膏デッサン メディチ家

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