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ストラトス

すとらとす

ランチアが製造したスポーツカー。世界ラリー選手権(WRC)で勝利することを目的に開発されたホモロゲーションマシンである。
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解説

車名のストラトスは、「成層圏」という意味の英語の“stratosphere”あるいはイタリア語の“stratosfera”からの造語であるとされ、“STRATOS”と表記される場合が多いが、実車のロゴをよく見ると“STRATO'S”となっている。これは他社が所有する商標権に配慮したためと言われている。その異色性と希少性より、ストラトスは第一級のコレクターズアイテムに挙げられる。

開発の経緯

「ゼロ」、「プロトティーポ」と呼ばれる試作段階のプロトタイプ期までと量産型の「ストラダーレ」量産期に分けて説明する。

ゼロ (1970年)

「ストラトス」の名称を冠した車としては1970年のトリノ・ショーでデビューしたベルトーネ作であるショー・カーの「ストラトス・ゼロ」があった。ショー・カーでこそあれストラトス・ゼロは実際の走行を可能とするために動力ユニット(エンジン、ギアボックス)やシャーシーをランチア・フルヴィアクーペのものから流用しており、MR(ミッドシップエンジン、後輪駆動)と言うシャーシレイアウトはここで仮に完成していた。
この車では乗降用のドアはフロントガラスを兼ねたハッチとなっており、フロントに貼られた「LANCIA」のロゴ部分を開閉ノブとしてハッチを開け、上下可動式のステアリングコラムを前に跳ね上げてから前部の黒いマット部分を足場として乗降すると言う風変わりなものであった。この時点でストラトス・ゼロはまだ量産からはほど遠い単なるショー・カーであり、フルヴィアに代わる「ラリーで勝てる車」を欲していたランチアにとってこの車は興味の薄いものであった。

プロトティーポ期 (1971年-1973年)

ランチアにとっては興味の薄いストラトス・ゼロであったが、ベルトーネからしてみると量産モデルとなった場合の年間生産台数3万台というランチア側とのいくどかのミーティングにより提示されていた数字は利益を考えても充分魅力的であった。そこでベルトーネはストラトス・ゼロの車両レイアウトがMRというラリー競技車にとり有利であることを利用してここからさらに量産化に向けた売り込みをランチアに対してかけ、さまざまな要素を検討した。前述のようにラリー競技での勝利を目指す車を欲していたランチアでワークス・チームの責任者を務めていたチェーザレ・フィオリオは、以下の点をストラトスの条件として課した。
補修、点検が容易に行える整備性
過酷なサファリ・ステージに耐える頑強な機械機構(高い信頼性)
ラリーでの高度な運動性能
これらが2、3年で色あせてはならないと言う命題をもとにベルトーネが作り上げたのが強固なモノコック構造のコックピットの前後に堅固なスチールフレームを締結、そのフレーム上に各々その前後端のフックで大きく開口する軽量な前後カウル(後にヒンジ化され、実戦仕様ではさらに肉薄化される)を持つボディであった。
エンジンやトランスミッションを搭載する車体後部は整備性を十分に考慮した骨格とされた。サスペンション周りの構造は同時期にフィアット社で開発され、これも当時ベルトーネ在籍のマルチェロ・ガンディーニがストラトスと並行してデザインに携わっていたフィアット・X1/9と同形式の剛性の高いものが採用されていた。後にX1/9はタルガ・フローリオに出場しこのサスペンションの評価を高いものとしたが、プロトティーポ時点でのストラトスのサスペンションは後述の通り実戦やテスト走行での改修が必要な段階にあった。しかし同様に剛性の確保しやすいホイールベースの短い車両という点から、ストラトスのボディ剛性は当時のF1マシンに匹敵するほどだったという。
この高いボディ剛性のためワークスのラリーカーも大きな補強をすることなく、ほぼそのままの状態であった。この強固なシャシーの発案自体はX1/9の開発にも関与していたダラーラであり、製作はランボルギーニ・カウンタックや後のBMW・M1のフレームも担当したウンベルト・マルケージ社であった。
ストラトスには高い競技能力が期待されたために同様のMRシャーシ・レイアウトを持つX1/9で世界ラリー選手権(WRC)に参戦するよりも、より宣伝効果の高いグループ4にストラトスを優先投入することがフィアット社の販売戦略により決定された。
1971年のトリノ・ショーでは発展系のプロトタイプが発表され、ラリーチームのエースドライバーであるサンドロ・ムナーリの意見も取り入れてその後の開発が行われた結果完成した最終プロトタイプが1972年のツール・ド・コルスからWRCのプロトタイプクラスに投入された。
ツール・ド・コルス参戦当初はサスペンションにトラブルを抱えていたもののその後もダラーラのバックアップ体制の下で熟成は続けられた。1973年にはかなり量産モデルに近いプロトタイプが発表されたが、この車は後に純正オプションとなるルーフとリヤのスポイラーがない点、前後カウルのアウトレットルーバーの形状やダッシュボード上に計器類が配列されるといったように最終的なストラダーレの形態との違いがあり、ワイパーに至っても2本式としていたものを後に1本式に改められている。

ストラダーレ量産期 (1974年-1975年)

当時のラリー車は量産車両を競技用に改造したものが一般的だったため、グループ4も量産車の競技用特別仕様を想定したものである「連続する12か月に5,000台を生産した量産GTカー」をグループ3として公認し、それをベースに改造した車両をグループ4とする規定であった。しかしランチアのチェーザレ・フィオリオは、グループ4のホモロゲーション取得のための必須生産台数が「連続12か月間に400台」と少ないことを利用し、パワートレーンだけをグループ3車から流用した競技専用車に近い車両を製作してラリーに持ち込むという手法を編み出した。
グループ4の承認は1974年10月に下りたが、フェラーリからのエンジンの供給が途絶えがちだったこともあり、規定台数(分のパーツを含む完成車)を製造できたのは翌年以降であった。
ストラダーレ仕様車を市販車として見ると、座席は2名分しかなくラゲッジスペースはリアに搭載したエンジンの後端寄り上部のトレーとヘルメットが入る奥行きのあるドアポケット位のスペースしかなかったため、実用性と掛離れたレイアウトとなっていた。その上馬力や排気量至上主義であった当時のスーパーカーファンからしてみるとこの車以上の数値を持つ車が数多く存在する中でラリー競技に特化したストラトスへの理解が低かったことから市場的に成功した部類の車とは言えなかった。こういった事情からラリーを宣伝材料に利用したフィアットの販売戦略はその対象を高価で特殊な車から大衆車へと転換し、同社のラリーイメージを鮮明にするためのワークス活動の素材をフィアット・131を基にした「フィアット・131アバルトラリー」へと早々に変更した。
1974年から製造開始とされる市場に出たストラダーレ仕様は、後期のラリー仕様と同様の両側に張り出すフェンダーが純正オプション化され、プロトタイプでは前後ダブルウィッシュボーンであったサスペンションがリアをロアアームにラジアスアームを追加したマクファーソン・ストラットに改められていた。元々ラリー車として開発された設計思想からサスペンションは調整可能な構造であり、最低地上高は130~165mmの間で自由に調整できた。スプリングとダンパーはオプションとして数種類が用意され、使用状況に合わせて選択することができたほかスポーツオプションとして固定式のスタビライザーも用意されていた。

エンジン

エンジンはフェラーリ・ディーノ246GT/GTSやフィアット・ディーノに使われたものと基本的に同じ。元々フェラーリの2,418ccのV6エンジンはディーノ206GT用のユニット自体、F2用に開発されたものであり、ストラトスで採用されたのはこれをボアアップした後の246GT用のユニットであり、両者共高回転よりの特性を持つ。
そこで、ストラトスではラリー用に中低速を重視し、セッティングが見直される。さらに、ブロック本体、コンロッド、ピストンはディーノと同じだが、カムシャフト、クランクシャフト、ヘッドなどは専用パーツに変更。最高出力は5PS低くなり、発生回転数は200rpm低い、低中速のトルクを重視したチューニングを行い、リアミッドシップに横置き、後輪を駆動する。ギア比が極端なクロスレシオに設定されていることもあり、最高速はディーノ246GT/GTSと比べて遅い230km/hとなっている。また、競技仕様であるワークスファクトリーカー最終仕様の出力については、其々の競技の項参照。
採用のエピソードとしては開発の初期段階でフルビアの水冷V型4気筒を一旦検討するが、ワークスカーでも160PS程度で、すでに性能的に限界に近く、当時のランチアには新たにエンジンを新造する時間も資金もなく、ベータ用に開発中だった2.0リットル水冷直列4気筒DOHCにほぼ決まりかけていた。
しかし、1971年にトリノ・ショーで発表されたストラトスには、仮のエンジンとしてディーノ206GTのユニットが搭載されていた。
それを目の当りにしたチェーザレ・フィオリオが、フェラーリと親会社のフィアットに提案、当時現行であるディーノ246GTの2,418ccユニットを獲得することに成功した。
エアファンネル上部にくるサージタンクの違いは湯たんぽのような形状で両端に2本のノズルが開くタイプと四角いケージ形状のエアクリーナーがつくタイプ(コンペティオーネ、ストラダーレ共に種類あり)、さらには後期型である薄型の平らな黒いケース形状のものがある。

ホイールベースとトレッドの比率による性能

一般的に、ホイールベースが長いほど直進安定性を得やすいとされているが、ストラトスのリヤのトレッドはスカイラインGT-Rに近い数値なのに対してホイールベースは現在販売されている軽自動車の一般的なホイールベースよりも短い。これは何より、ラリーマシンとしての資質を最優先させたがゆえである。ホイールベースが短いため直進安定性を得るのは簡単ではないが、それと引き換えに回頭性の良さを手に入れており、コーナーでは優位に立った。
その挙動についてはかのWRCでの実戦でストラトスに乗ったことのあるラリーストであるミシェル・ムートンやビヨン・ワルデガルドとの取材時エピソードで語られている通り「全てのコースがコーナーであってくれれば良いと思ったくらい」、「直線では気を抜けない」などと表現していた。 そのため当時ラリーに参戦していたストラトスの写真は、どれも決まった車体のコーナリング角度がなく写真を見るだけでもその回頭性能がシビアだったのかが伺える。
当時のタイヤ性能でその特異なコーナリング性能を発揮するにはいささか不足がちとしてワークスチームタイヤ供給元であるピレリに開発を委ね、対応できる専用タイヤ開発に成功。フィードバックされ後に「ピレリ・P7」として商品化される。

レプリカ

日本において1970年代のスーパーカーブームの真っ只中に発売された車であったが、1980年から1990年代へ進むと並行輸入やオリジナルの現存車両も少なくなり、ストラダーレ仕様でさえ希少となっていた。これらの要因から、ランチアとは無関係のレプリカのキットカーも多数存在し、中には日本の公道向けに保安部品をつけ、公認を取っている車両も存在する。ここでは代表的なものを挙げる。
C.A.E.社製
英、C.A.E.(Carlson Automotive Engineering)社製。丸型パイプフレームはオリジナルとは全く異なる形状。ボディワークもオリジナルのものとはサイズが微妙に異なるので、オリジナルとの互換性はない。アルファ・ロメオ製V6ユニットやランチア・デルタ用のユニットを積む現車が日本に点在する。オリジナル同様にディーノのV6ユニットも搭載可能。1990年代後半まで日本に入ってきたものの多くはC.A.E.社製の物が多い。

ホークカーズ(別名:ホークリッジ)社製
アタカエンジニアリングがベースとしていたオリジナルベースのHF2000/HF3000シリーズ。選択するエンジン排気量によりモデルネーミングが替わる。エンジンバリエーションはランチア製やアルファロメオ製、フェラーリ製より数種類選択可能。

アタカ・エンジニアリング・AER社製
2000年登場のHFR2000はエンジンは日本国産中古品をリビルドしたものから選べ、後に改良を加えたtype IIにまで発展した。このエンジンチョイスはオリジナルより系列メーカーに沿ったパワフルなエンジンとするか、始動やメンテナンス性(アフターパーツの入手製など)など実用性・信頼性を重視したエンジンにするか、といった選択肢がありユーザーに配慮していた。アタカ製はホークカーズを母体としていたが、独自に変更している点も多く、ボディデザインは多少異なっていた。フレームワークは一見オリジナルに似た各断面のリアフレームになっているが、実は中央部もパイプフレームで、オリジナルと違ってセミモノコックになっていなかった。
アタカは社名をAERに変更し、2012年時点では現行モデルとしてHFR2500T IIIをラインナップしている。

リットンカーズ社製
オリジナルパイプフレームベース とこちらもランチア・ベータ・モンテカルロベースのアローラがある。

競技

ランチア自身のワークス活動としては大別して2種類のカテゴリに投入され、プロトタイプから熟成を重ね頭角を表す様になる。それぞれ、ラリーとオンロードであるが、カテゴリ毎でのレギュレーション上の細かい箇所での仕様変更も伴う。 競技仕様は「コンペティツィオーネ」として「プロトティーポ」でのサスペンション形式である前後ダブルウィッシュボーンのままパワーソースチューンとタイヤトレッド幅変更によるカウリングの変更を段階的に施され派生した。

ラリー

前述の通りランチアがストラトスを投入するまでは当時のラリー戦歴的にジャン・クロード・アンドリューが駆るFRPボディによる軽量化まで進化していたアルピーヌ・A110に手を焼いていた1971年シーズンまで、ランチアはフルヴィア、フィアットは124アバルト・スパイダーで対抗するも、RAC・ラリーとスカンジナビア・ラリーでフォードはティモ・マキネンとロジャー・クラーク、サーブはスティグ・ブロンクビストなどが焦点を絞っており、安定した常勝には難しく、サファリ・ラリーには日産がブルーバード510、ダットサン・240Zでシェカー・メッタや地元勢がスポット的に勝ちを狙い、ランチアがヨーロッパのみならずのラリー制覇に目を向けるにはフランス勢の存在もあり、フルヴィアやベータ・クーペの戦闘力で押さえつけるには開発競争的にも熾烈を極めていた状況であった。まず、ストラトスは前述にもある通りプロトタイプクラスで1972年のツール・ド・コルスにルーフの後へインダクションポッドを配す仕様で試験的に投入。1973年、1974年とラリーはオイルショックで一時開催を部分的に自粛されるも、その後はストラトスが旋風を巻き起こす。そこから熟成を重ね、1973年世界戦外であるスペインのファイアストーン・ラリーで初優勝を挙げるとこれをコンペティオーネ仕様として熟成させていくことになる。世界ラリー選手権での初勝利は、市販モデルとして挑んだグループ4ホモロゲーション取得直後の地元ステージ、1974年サンレモ・ラリーであり、わずか4戦に出場しただけで1974年のメイクス・タイトルを獲得してしまう。その後、1975年、1976年と、他チームはストラトスに基準を合わせ開発を進めるも、どの車よりもその走りはターマック、グラベルを選ばず総合的に寄せ付けなかった。完走の難易度が高い1975年のサファリではビヨン・ワルデガルドとサンドロ・ムナーリのストラトス2台、ベータ・クーペが1台支援としてエントリー。サービスポイント数やセスナの手配においても他チームより万全のサポート体制を敷く。79台出走中完走14台と言う過酷なラリーとなった。3台とも度重なるミッション、サスペンショントラブルの中、幸運な事にポイントリーダーである三菱・ランサーのジョギンダー・シンが翌日の第2レグ前半でリタイア。ベータもその直後リタイア。ワルデガルドもブレーキトラブルでペースダウンを余儀なくされ、オヴェ・アンダーソンのプジョー・504よりポイントでリードしていた分、ミッション修復でポイント減点されていたムナーリが最終ステージでコースアウト。リアセクションをヒットさせ、スペアタイアの重みでリアカウルが吹き飛び、三菱勢を抑えつつもゴール手前でカウルを付け直しなんとかムナーリが2位、ワルデガルドが3位に食い込む。翌年からのサファリではタイヤをルーフに取り付ける様になったのはこのときの有名なエピソードが含まれる。さらにサファリをも得意としていたワルデガルドが1976年後半にフォードへ移籍。この事から1977年のサファリを勝ち取るのがこの車にとっていかに難しかったかが伺える。結果1974年、1975年、1976年の世界ラリー選手権製造者部門のタイトルを獲得。1974年はフルヴィアやベータ・クーペでのポイントを含む。ただ、この時点で3度メイクスタイトルに輝いたとしてもムナーリ、ラウノ・アルトーネン、ヴィック・プレストン・ジュニアなどと多くのドライバーに委ねようとRAC・ラリーだけは勝てなかった。ランチアチームのカラーリングの移り変わりとしては1975年からはそれまでの継続的なマールボロカラーとは一変。アリタリア航空がスポンサーにつき、ボンネットフード部分にアリタリアのトレードマークを配した白と緑主体のカラーリング。ここからWRC上ではワークスファクトリーで組まれた払下げ車両を含む「ファクトリーカー」を使用した地元有力プライベーターと共に破竹の強さを見せることとなる。1976年、1977年とボディ上面フロントからリアに矢を髣髴とさせるリボン状の赤、緑、白のストライプにボディサイドセンター部へ大らかにトレードマークを配した有名なカラーリングとなる。フィアットはランチアを1965年に買収したことで、実質2つのチームを所有していた。下位カテゴリ(Gr.1、2)で128(後継に当初X1/9投入を考えていたが131投入後にリトモを投入する)などでも参戦していた手前上これらを並行して運営して行くにはいささかつらかったのである。これらの要因から、フィアットの意向でワークス活動を1979年フィアット・131アバルトに移す以前よりセミ・ワークス状態であるフランスのプライベートチーム、シャルドネやジョリークラブにも継続供給。1979年、「100ユニット生産によってホモロゲーションに仕様追加できる」というルール上の特例が廃止され、ワークスでのラリー最終仕様となっていた300馬力の4バルブエンジン、軽量フライホイール、ツインプレートクラッチ、レーシングギアボックスといったパフォーマンス向上に貢献するユニット類が使用禁止となる。そこで「コルス・マイスター」の異名を持つベルナール・ダルニッシュはツール・ド・コルスをシャルドネで勝利するために4バルブエンジン完成まで使われていた270馬力に進化させていた2バルブエンジンをワークス・エンジニアであるクラウディオ・マリオーリに委ね、283馬力を絞り出すことに成功し、フォード・エスコートRSを駆るワルデガルドに勝利する。1980年代序盤でもその戦闘力は実戦で通用しており、最後の優勝は前述のダルニッシュによる、1981年ツール・ド・コルス。また、ローカルイベントであるシャモニー・アイスレース(氷上耐久レース)でもその勇姿を見ることができた。
市販車とは一線を画すような特徴である、流線型とはほど遠いように鋭角的に張り出したドライビングライト(当時ではフォグランプ)を装備しているが、これは通常の車両用ではなく多大な光量を得るために特殊な航空機用を流用したものだった。しかし夜間に見学していたギャラリーの暗闇に慣れた目を直撃してしまい、あまりに眩しいとクレームが付いたので使用禁止になり、後年は光量を落としたレンズカッティング化された競技車両用に換装された。

レース

ストラトスはモンツァなどでの地元サーキットレースやルマンなどの24時間耐久カテゴリにも参戦した。参戦にあたり、クーゲルフィッシャー製インジェクタとKKK製ターボチャージャーを装備し、ドライサンプ化、ホイールベースを140mm延長した、耐久レース仕様のGr.5車両が製作された。また、タルガ・フローリオと言ったスポーツカー世界選手権外となった公道クラシックイベントにもWRC参戦前の1973年に、リア後端に6つのアウトレットが開いているマールボロカラーのプロトタイプを投入し、サンドロ・ムナーリ、ジャン・クロード・アンドリュー組でバケットシートトラブルでピットインしつつも2位の成績を収めると、ツール・ド・レズナでも優勝を果たし、その後9月のツール・ド・フランスで優勝。熟成の進んだ1974年のタルガにはアミルカーレ・バレッストリエーリ、ジェラール・ラルース組で優勝している。その後ロングホイールベースとし、ボディワークがシルエット化されると、イタリア中のサーキットを巡るジロ・デ・イタリアでもムナーリの手による活躍がみられた。1977年のジロ・デ・イタリアをムナーリの手で走り、エンジントラブルでリタイアした「#539」は直後日本へ空輸され、同年富士スピードウェイで開催されたフォーミュラーチャンピオンレースのアトラクション「スーパーカーVSレーシングカーショー」で当時星野一義がエキシビジョンとしてエンジン不調のままドライブし、一時話題となった。同時に展示車両としてもGr.4ラリー仕様とストラダーレを展示。この事もあって1977年仕様のワークス(アリタリア航空)カラーが当時日本でストラトスとして一番連想させるカラーリングとして根付くようになる。この車両は長らく日本でいわゆる「松田コレクション」として展示されていたが、現在は欧州のコレクターに渡り、エンジンを含め走行可能な状態に復元されている。
1979年のGr.5仕様では先のインジェクション化やターボ化によるりファインに加え、3バルブヘッド化。出力も耐久性を無視すれば560psに到達するものの、スプリントレース仕様では530psとしている。ボディワークの軽量化も手伝って、850kgまで軽量化された。以降、ワークス活動をベータ・モンテカルロ・ターボ Gr.5へとリカルド・パトレーゼ、ジル・ヴィルニューヴ等の手により移していくと、多くのストラトスはプライベーターの手に委ねられた。

ラリークロス

また、1975年頃からヨーロッパ各地で盛んであるERAヨーロッパラリークロス選手権(現在のFIA ヨーロッパ選手権 ラリークロスドライバーズ)でも地元プライベーター転用されている。中でも赤と白のメンフィスカラーのストラトスを駆るかのF1ドライバーであるアレクサンダー・ヴルツの父、フランツ・ヴルツがアルピーヌ・A110、ポルシェ・911などが猛威を振るっていた1975年から使用し、1976年にはシリーズタイトルを獲得。アンディー・ベッツァもストラトスユーザーとして息の長かった存在でありヴルツと共に勝利を重ねている。ベッツァはシーズン後半にアウディ・クワトロA2に乗り換えることになる1983年当時の仕様ではグループ5として3.0リッターエンジンにまで発展させた仕様を投入していた。

コンセプトモデル・プロジェクト

ストラトス・ゼロから数えると、生誕から2000年で30周年、2010年で40周年となったことが影響し、ストラトスの名称を用いたり、モチーフにしたコンセプトモデルや関連するプロジェクトが発表されている。
2000年トリノショーにはマルチェロ・ガンディーニが「ゼロ」的立場の「Stola S 81 コンセプト」を発表。ほぼ、並行してコレクターズミーティングである「World Stratos meeting」上、水面下でそのメモリアルとしてニューストラトスのプロジェクトが発足。2005年の時点で商標権がすでにランチア、ベルトーネからフェノメノンに移り、モックアップも完成。量産化については難航しており、フェノメノン代表がピニンファリーナに籍を移しつつ2010年、ワンオフと言う形で「ニューストラトス」が生まれ、1912年に誕生したベルトーネが2012年、創業100周年記念として「ゼロ」をモチーフとしたコンセプトカー「ヌッチオ」を製作する。

ストーラS81コンセプト

2000年、先述のとおり、基のストラトスの産みの親であるマルチェロ・ガンディーニが打ち出したコンセプトモデル。前後アウトレット、インテークが市販バージョンのプロトタイプに近い形なのが特徴。トリノを本拠地とした少量生産メーカーであり、その後数多くの復興車をリリースしているストーラ社がモックを試作した。

フェノメノン・ストラトス

2005年、ロンドン新興のデザイン会社フェノメノン22]とADDがジュネーブ・モーターショーにてコンセプトモデルとして発表。かのワークスドライバーであるサンドロ・ムナーリのアドバイスの基、デザインされたものである。現在「ストラトス」という名称の権利はランチアでもフィアットでもなく、フェノメノン社が所有しており、今後の動向がファンにより注目されていた。同年9月の段階ではラリーで関り合いのあるプロドライブと量産契約を交している。
ドアを兼ねたフロントガラスを2分割しているセンターピラーを軸に開くガルウイング方式としていた。

ワンオフモデル

報道や公式サイトによれば「ニューストラトス」という名称をもつ。構想段階から実車の完成までに約2年を要した。ロゴについては「'」(ダッシュ)が抜けている「STRATOS」がリアに冠されている。一見、前述のフェノメノン・ストラトスと見間違うような前面のシルエットであるが、独大手部品メーカー、Brose社のオーナー兼CEOを務めるMichale Stoschekがフェラーリ・430スクーデリアをベースとしてピニンファリーナがデザイン・製作を実施。
スペックは全長4181×全幅1971×全高1240mm、ホイールベース2400mm。F430と比較すると、334mmもコンパクトなボディと、200mm短いホイールベースとなる。4.3リッターV8エンジンにはリアアクスルレシオも兼ね、より加速性能重視の設定とされる専用チューンが施され、最大出力540ps/8200rpm、最大トルク51kgm/3750rpmを獲得。フルカーボンファイバーのボディにより、車両重量はF430よりも200kg以上軽い1247kgに抑えられ、パワーウェイトレシオは2.3kg/psを達成。前後重量配分は、44対56とし、0‐100km/h加速は3.3秒、最高速は274km/h。その結果1トンあたり413bhpのウェイトパワーレシオとなる。
同年9月のテスト走行を経て同年11月に完成し、オーナーのMichale Stoschekに引き渡された29]。
このワンオフモデルに世界中から約40名の顧客が購入意思を提示したことを受け、ワンオフ復刻プロジェクトから進展し量産化計画が発表され、フェラーリ「360モデナ」または「F430」をベースにして、少量生産に移される計画が進行していた。しかし、この計画についてフェラーリ側はピニンファリーナやフェラーリ関連のサプライヤーを使った量産は認めない方針として難色を示し、結果的にフェラーリ側の承認が得られず断念した。
2012年7月、地中海のマヨルカ島で開催されたラリーイベント「Rallye Isla Mallorca」に、オーナー自らドライバーとしてニューストラトスで参戦した。

ヌッチオ

ベルトーネ創業100周年記念として「ゼロ」のデザインをモチーフとする形でベルトーネ所属のマイケル・ロビンソンがデザイン統括し、2012年3月のジュネーヴ・モーターショウにて発表された。1997年に逝去したヌッチオ・ベルトーネに敬意を示したネーミングとなる。

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