デルタS4
でるたえすふぉー
グループBの規定に基づき、建前では同社のコンパクトハッチバック『デルタ』の派生車種…となっているものの、2ボックススタイルというシルエットを除きベース車(というのもおかしい程ではあるが)の面影は無い。
デルタがエンジン横置きのFFであるのに対して、デルタS4はエンジンが運転席の後ろに縦向きに載るミッドシップレイアウトのビスカスカップリング式4WDで、そもそも大部分がパイプフレームで構成されているため通常の乗用車として製造されたデルタと機構上の共通点はほぼ無く、純粋なレーシングカーである。ボディ外板はカウルとでも言うべきもので、ボンネットとキャビンのドアより後ろの部分はゴッソリと取り外せる。
排気量1759ccのエンジンは、ターボチャージャーとスーパーチャージャーを両方搭載するツインチャージャー方式である。
ストラダーレは「WRC参戦車両のベース車は年間200台以上製造しなければならない」というグループBの規定に則り、1985年からホモロゲーションモデル(市販車)として生産・販売されたモデルである。後述のコンペティオーネより抑えられたとはいえ最高出力は250馬力を発揮しており、当時の日本車でS4を上回る馬力の市販車は存在しなかった。ちなみに当時の日本車最強はZ31フェアレディZの230馬力である。
一方、コンペティオーネは「ベース車の200台のうち20台は参戦車両としてエヴォリューションモデル(改良型)を認める」という但し書きに基づいて製作されたものである。
レース用のコンペティオーネの最高出力は少なくとも400馬力以上。1986年のアクロポリス・ラリーでは600馬力を発揮していたと言われる。
ボディも当時最先端のカーボンケブラーなどが使用されるなど徹底的な軽量化が図られた結果、車重はストラダーレの1197kgに対して890kgでレギュレーション上の最低車重ギリギリだった。
つまり、車重に対してパワーが凄まじく、挙動の制御も不安定で特に不整路や雪道などでは操縦が難しいマシンであった。
コンペティオーネの戦績
WRCの1985年の最終戦RACラリーで実戦投入され、ヘンリ・トイヴォネンとマルク・アレンの1-2フィニッシュでデビューウィンを飾る。
圧倒的な速さを見せたがその反面扱えるドライバーを選び、完全に操縦できるドライバーはトイヴォネンだけと言われていた。
しかし、1986年5月のツール・ド・コルスにて、トイヴォネンの駆るデルタS4は崖下に転落、直後に爆発炎上し、トイヴォネンとコ・ドライバーのセルジオ・クレストは焼死してしまう。事故を起こしたデルタS4は引き上げられた時にはシャーシとサスペンションしか残らぬほど焼き尽くされていた。
この惨事を契機にグループBの廃止が決定し、「グループB最強」とまで言われながらもチャンピオンを獲得することはなかった。
その後、ラリーカーはコレクターに放出され、別のラリーや競技に転戦していった。
日本にもコンペティオーネのグループB仕様の保存車が存在する。
ちなみにランチアはS4ベースのECVやECV2を試作するが試作のみで終わっている。