概要
1956年8日25日生まれ。
ラリードライバーだった父親・パウリの影響もあって、5歳からカートを始めた。当時フィンランドでは19歳までラリーに参戦することが法律上できなかったため、ジュニア時代をフォーミュラレーサーとして過ごした。
1975年にプライベーターとしてシムカやクライスラーをドライブしWRCにデビュー。
しばしワークスドライバーに迫る速さを見せたことが評価され、1980年にタルボのワークスへと昇格した。
そして同年のRACラリーで、24歳の若さで初優勝。これは当時のWRC最年少優勝記録であり、2008年にフォード(当時)のヤリ=マティ・ラトバラ(現.TOYOTA GAZOO Racing WRTチーム代表)が22歳で優勝するまで30年近くにわたって記録を保持し続けた。
グループB時代の1982年にはオペル、1984年にはポルシェと渡り歩き、1985年にランチアと契約。当初は037を駆っていたが、シーズン途中からデルタS4にスイッチした。
当時最強を誇っていたライバルのプジョーと同じミッドシップ+4WDのデルタS4は高い戦闘力を示し、最終戦RACラリーでトイヴォネンは5年ぶりの勝利を手にする。
事故死
翌1986年開幕戦では伝統のラリー・モンテカルロも制して一流ドライバーの仲間入りを果たしたかに見えたトイヴォネン。しかし同年第5戦ツール・ド・コルスにて、首位をリードしていた彼のデルタS4は、通算4勝目が目前のSS18にてコースアウトし崖下に転落。
可燃性素材がふんだんに使われていたこともあり、マシンは爆発炎上し、コ・ドライバーのセルジオ・クレストと共に死亡した。
29歳没。
現場はガードレールが無いとはいえ緩いコーナーであり、何故コースアウトしたのかは未だに不明である。
目撃者は居なかった。
すでにグループB規定下のWRCでは様々な重大事故が起きており、同じコンセプトでより低馬力なグループS規定への移行が決まっていたが、この事故が決定打となりグループBの廃止が前倒しで決定。さらにグループS規定も導入が見送られ、翌年からは従来下位カテゴリだったグループA規定が取って代わることとなった。
グループBは今でも熱心なファンの多い時代であり、その終焉の象徴として、トイヴォネンとデルタS4の悲劇が語られる事は多い。
またトイヴォネンは数字だけ見れば通算3勝だけであるが、そのうちの2勝は死亡直前に乗り換えたデルタS4で記録したものである。チャンピオンを有望視されるドライバーとなった直後のその死の意義は、一層重いものであった。
余談
- 弟のハリもラリードライバーで、WRCに参戦していた。兄の死亡後はサーキットに転向し、スポーツカー耐久で活躍した。
- サーキット出身という事から、レースとラリーどちらもこなせるドライバーだった。ラリー転向後もグループCマシンでのスポーツカーレース参戦、英国F3参戦、F1マシンのテストなどを行っている。