概要
この会社は1949年にイタリアのトリノにて設立された。小型車を用いレース用の改造などを行い、優秀な成績を収めた。しかし、1971年フィアットに買収、その後はレーシング用車両の開発などを行うものの、1981年には会社としての活動を停止する。
その後はフィアットの社内ブランド(もしくはワークス工房)の扱いであったが、再編成により会社自体は復活している模様。
歴史
1908年、オーストリアのウィーン出身のカール・アバルト(それまではバイクのレーシングライダーとして活躍)は、イタリアに移住、カルロ・アバルト(Carlo Abarth)と名乗った。その後チシタリア(Cisitalia)の技術/モータースポーツ責任者を経て、1949年に会社「Abarth & C.」をトリノ市コルソマルケ38に興し、自動車マフラーなどのパーツを販売。それらの資金を元に主としてフィアットの小排気量車をベースにしたエンジンのチューンやレース車の製作を行った。
その会社で制作された自動車にはカルロ・アバルトの誕生月の星座であるサソリのエンブレム(スコルピオーネ)が装着された。
そしてその会社で作られた「アバルトマジック」とも呼ばれる高度の改造を施された自動車は多くの競技で活躍した。1950年から1960年代にかけて113の国際記録およびレースにおいて7400以上の勝利を得、小排気量車による勝利に対して「ジャイアントキラー」(でかい車をねじ伏せる小人車)「ピッコロモンスター」(小さな化け物)などの異名も得た。
しかし、1971年にAbarth & C.は無慈悲にもフィアットに買収され、さらにその自動車競技部門はオゼッラ(ビンチェンツォ・オゼッラにより作られたレーシングチーム、F1にも1980-1990に参戦)に分割譲渡された。
買収後
1971年に買収された後、フィアットのモーター・スポーツ部門を受け持ち、世界ラリー選手権(WRC)向けにアバルト124ラリー(1966年に発表された小型車であり、ロシアやインドでもライセンス生産されたフィアット・124をベースにしたレーシングカー)、アバルト131ラリー(フィアット・124の後継車、フィアット・131がベース)、フィアット・アバルトX1/9プロトティーポ(アウトビアンキ・ランナバウトをベースとし、フィアット・128と部品を共通化したオープンカーであるフィアット・X1/9)の開発を行なった。
1979年より、ランチア・037ラリーのベースとなるベータ・モンテカルロ・ターボ Gr.5(スペック上では素晴らしいが維持管理が非常に難しいランチア・ベータ・モンテカルロがベースとなっている)のパワーソースチューンを行なう。
1981年、会社としてのAbarth & C.は活動を停止した。しかし実際にはフィアット内のレーシング部門として活動が続いた。
フィアットのWRC出場が同社の傘下になったランチアに移行した後も、1983年発表の037ラリー(ミッドシップエンジン・リアドライブ最後のタイトルを獲得した車両。本来この会社の名前がつくはずだったが親会社の意向により外された)、1985年発表のデルタS4(ランチア・デルタの名前を持つもの設計は別物の車)の2台の優れたグループB規定車両の開発を担当した。
1982年から1991年の世界耐久選手権(WEC)ではランチアワークスでのオープントップクラスでのランチア・LC1(プロトタイプレーシングカー。旧規格であるため1年のみ活躍)やグループCカーランチア・LC2(新しい規格に合わせて設計されたレーシングカー、ポルシェのレーシングカーに対抗できるが、信頼性が低いためあまり活躍できなかった。なお、ワークス放出後もムサットにより継続)のパワーソースチューンも担当している。
1986年、ボローニャ・モーター・ショウでデルタS4から発展型のハイテク(カーボンハニカムコンポジット)素材を統合させたランチア・ECV(Experimental Composite Vehicle)(推定600馬力前後)発表。『ECV2』(750馬力)は1988年にハイテク素材と空力のテストベッドとして発展し、WRCグループS(当時グループB、連続した12ヶ月間に20台の競技用車両を含む200台生産が条件であったが、もっと金銭的負担の少ないルールとして制定)頓挫によりそのプロジェクトを終了させた経緯がある。同時に国際自動車スポーツ連盟(現在は国際自動車連盟に吸収)が予定し頓挫したプロカー選手権用のプロカー4も試作、テスト段階でその幕を閉じることとなった。
1987年にはWRCの参加車両がグループB車両からグループA車両に移行したが、同年から1992年までWRC6連覇したランチア・デルタ・HFシリーズの開発も主にアバルトが行っている。
1990年代は主にドイツツーリングカー選手権(DTM)や国際ツーリングカー選手権(ITC)用とアルファロメオ系のGTカーやワンメークレースであるカップカーやグループN車両を手がけるようになる。
1997年、アバルトのスタッフがフィアットのモータースポーツ部門、フィアット・アウト・コルセに吸収されて事実上のファクトリーが消滅。
2001年、フィアットは、スーパー1600クラス車両プント・アバルト・ラリーおよびスティーロ・アバルト・ラリーを発表、以降ヨーロッパのラリー選手権に参戦した。なお、開発別の会社であるN・テクノロジー社が担当。
2005年、継続してプント・アバルト・ラリーにてヨーロッパラリー選手権に参戦。また、市販車のパンダを大幅にチューニングしたパンダ・ラリー・アバルトを使用したパンダ・ラリー・カップを開催。いずれも車体には大きくアバルトの文字および象徴であるサソリが描かれていた。
2006年、フィアットはスーパー2000クラス車両であるグランデ・プントS2000アバルトでの参加を開始。ヨーロッパラリー選手権、イタリア国内選手権を制覇。
2007年、親会社は公式にABARTH&C.の復活がプレスリリースされた。これに合わせて市販車、グランデ・プント・アバルトのプロトタイプが発表され、その後9月にグランデ・プント・アバルト1.4ターボ(155ps)が発売された。フィアットとして参加していたインターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ(IRC)ではワークス名をアバルトと変更し、名実共にアバルトとしてラリー活動を行うことになった。
市販車への影響
この会社の設計した車種はラリーカーの市販バージョンのほか、1970年~1980年代にアウトビアンキ・A112アバルト、フィアット・リトモ・アバルト125TC、フィアット・リトモ・アバルト130TCなどに関与した。
その後もアバルトを冠した市販車がフィアット・グループから登場したものの、1991年発表のフィアット・チンクェチェント・トロフェオ(フィアット500のエンジンチューンバージョン。車名にアバルトの名はない)以外はこのメーカーが得意としたエンジンをチューンしたものではなく、外装面でそれっぽく作っただけである。
2008年、3月、新型フィアット・500のベースの500アバルト1.4ターボ(135ps)がジュネーブモーターショーにて発表された。また、グランデ・プント・アバルト1.4ターボに装着するesseesse(Super Sport)キット(180ps)も本国にて発表された。5月、49台限定の500アバルトassetto corse(200ps)を発表。9月500アバルト1.4ターボesseesseキット(160ps)発表。
2009年、2月より日本国内のオフィシャルディーラーネットワークが構築され、同時にアバルト グランデプント ベースグレード発売。4月にアバルト500(フィアット500をチューニングしたもの)発売。6月にアバルト グランデプント エッセエッセ発売。
2010年、10月アバルト500C(140ps) 、アバルトプントエボ(165ps)発売。11月にアバルト695トリビュートフェラーリ(フィアット500の2007年バージョンのうち、フェラーリとコラボしたもの)予約開始。2011年には納車された模様。
関連項目
イタ車 レーシングカー フィアット アウトビアンキ・A112アバルト
同類他社
ラリーアート マツダスピード - 現在はそれぞれ本社に統合された。