概要
本鉄道はシカゴ周辺を拠点に17000kmを超える路線網を有する大手鉄道会社(第一級鉄道)であった。西海岸のタコマに至る大陸横断路線を有し、オリンピアン号などの長距離旅客列車を運行した。また大陸横断鉄道では珍しい電化区間があり、特徴ある電気機関車を保有した。1970年代から大規模に経営規模を縮小し、大陸横断路線も廃止した。1985年、カナディアン・パシフィック鉄道の関連会社スー・ライン鉄道に買収されて消滅した。
沿革
創業と発展
1847年、のちにミルウォーキー鉄道となるミルウォーキー・アンド・ウォーキショー鉄道が、五大湖沿岸の都市ミルウォーキーとミシシッピ川とを結ぶ路線の免許を得た。1849年に正式に会社を設立、1850年には社名をミルウォーキー・アンド・ミシシッピ鉄道に変更している。最初の路線となるミルウォーキー~ウォーワトサ間8kmが同年に開通、1851年にはウォーキショーに延伸したが、早くも債務超過に陥りかけた。しかしその後ウォーキショーから南西に進み、その後北西に進路を変えて、マディソンに至る路線の建設に漕ぎつけた。1857年にはミシシッピ川沿いの都市プレイリー・ドゥ・シーンまでの路線を全通させ、当初の目的を達成した。
だが1857年恐慌とその後の不況のあおりを食らい、同社は再建手続きに入ることとなる。1861年には同社の事業を引き継いでミルウォーキー・アンド・プレイリー・ドゥ・シーン鉄道が発足。同鉄道は1867年、ミルウォーキーの著名な銀行家アレクサンダー・ミッチェルのもと、同じくミシシッピ川沿いの都市ラ・クロスとミルウォーキーなどを結んだラ・クロス・アンド・ミルウォーキー鉄道と合併し、ミルウォーキー・アンド・セントポール鉄道となった。
1870年代には多くの鉄道会社を統合し、経営規模を急速に拡大した。1873年にはシカゴに到達、1874年には社名をシカゴ・ミルウォーキー・アンド・セントポール鉄道に変更した。1882年に当時唯一の大陸横断鉄道ユニオン・パシフィック鉄道の起点オマハの対岸のカウンシル・ブラフスに達し、1887年にはカンザスシティにも乗り入れた。このころ路線延長は1万kmを超えるまでになっていた。
そんな上り調子のシカゴ・ミルウォーキー・アンド・セントポール鉄道のライバルとなったのが、ジェームズ・ジェローム・ヒル率いるグレート・ノーザン鉄道である。グレート・ノーザン鉄道は1893年にセントポール~シアトル間の大陸横断路線を連邦政府の補助なしに完成し、しかも健全経営を維持していた。さらにそれに先立つ1883年に大陸横断路線を完成させたものの、経営危機に陥っていたノーザン・パシフィック鉄道の経営権も手にしていた。同鉄道への対抗のため、シカゴ・ミルウォーキー・アンド・セントポール鉄道は自社で大陸横断路線の建設を行うことを決定した。
大陸横断と電化
1905年、取締役会が大陸横断路線の建設を承認。6000万ドル(現在の17億ドル相当)を投じる巨大プロジェクトがスタートした。建設は急ピッチで進められ、1909年には西海岸の都市タコマまでの路線が完成。同年に貨物輸送、翌年に旅客輸送を開始した。この路線は、並行するノーザン・パシフィック鉄道とグレート・ノーザン鉄道よりも距離が短く、特にノーザン・パシフィック鉄道よりは200km以上短かった。また他の大陸横断鉄道とは異なり、シカゴ~西海岸を1社で運営したのも特徴である(例えばグレート・ノーザン鉄道の場合、シカゴ~セントポール間はシカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道という関連企業が運行していた)。一方で線形はそこまでよくなく、また主要都市をあまり経由せず、支線で連絡する形態となっていたことが、後年まで輸送量が伸び悩む原因となった。また終点を大都市シアトルではなくタコマに置いたのは、グレート・ノーザン鉄道およびノーザン・パシフィック鉄道がすでにシアトルにターミナルを有していたためであった。1911年には長距離旅客輸送を開始し、この際にユニオン・パシフィック鉄道との共同使用駅シアトル・ユニオン駅を設置してシアトル乗り入れを果たした。シカゴ~シアトル間に最優等列車「オリンピアン」と優等列車「コロンビアン」が設定され、「オリンピアン」は両都市間を72時間で結んだ。1915年には27‰の急勾配があったカスケード山脈区間に、全長4kmのスノコルミー峠トンネルが完成し、勾配は17‰に緩和された。
シカゴ・ミルウォーキー・アンド・セントポール鉄道は、競争で優位に立つべく、山岳区間の電化を計画する。1914年に電化工事が開始され、ロッキー山脈を越えるモンタナ州ハーロートンとアイダホ州エイブリー間700kmが1917年に、カスケード山脈を越えるワシントン州オセロとタコマ間350kmが1919年に、ともに直流3000Vで電化された(シアトル・ユニオン駅への区間は1927年に電化されている)。ロッキー山脈区間の電化時にはEF-1型/EP-1型機関車がアメリカン・ロコモティブ社(ALCO)で、カスケード山脈区間の電化時には、EP-2型がゼネラル・エレクトリック社で、EP-3型がボールドウィン社でそれぞれ製造された。これらはともに最新技術を投入した野心的な機関車だった(後述)。
倒産と再建
大陸横断路線の完成で営業距離は16000kmを超え、西海岸にも営業範囲を広げることができたが、最終的な建設費と電化工事費は2億5000万ドル(現在の32億ドル)を超え、会社は5億ドル近い負債を抱えることとなった。第一次世界大戦中、アメリカの私鉄はすべて合衆国鉄道管理局の管理のもとに置かれた。電化工事によって運行経費の削減が可能となったが、国営化で運行効率は落ち、営業係数は悪化した。1920年に民営に戻ったのちも経営は好転せず、1925年、ついにシカゴ・ミルウォーキー・アンド・セントポール鉄道は倒産した。
この時路線を引き継いで誕生したのが、シカゴ・ミルウォーキー・セントポール・アンド・パシフィック鉄道、いわゆるミルウォーキー鉄道である。ミルウォーキー鉄道は1926年、看板列車「オリンピアン」にプルマン社製の新型車を投入、1927年にはヨセミテ国立公園近くに直営ホテル、ギャレティン・ゲートウェイ・インを開設するなど、利用者の掘り起こしに努めた。しかし1929年の世界恐慌とその後の不況が同社の経営を直撃し、1930年には「コロンビアン」が廃止に追い込まれる。そして1935年には再び倒産し、経営再建が終了したのは実に10年後の1945年のことだった。
このような困難の中でも、サービスの向上は続けられた。ちょうど流線形車両が流行していた時期に当たり、ミルウォーキー鉄道も流線形車両を使用する優等列車「ハイアワサ」を1935年にシカゴ~ミネアポリス間に設定した。アメリカン・ロコモティブ社製の流線形機関車A型と、自社製造の流線形客車を用い、時速160km/hの高速運転を行ったこの列車は人気となり、各地にハイアワサの名を冠する優等列車が設定されていく。1937年には「オリンピアン」にも「ハイアワサ」同等の客車が投入された。
第二次世界大戦後
戦後にも積極的な設備投資が続けられる。1947年には戦時中運行が休止されていた「オリンピアン」が、新車を導入して「オリンピアン・ハイアワサ」として復活。最後尾にドーム状の展望車「スカイトップ」(上の画像)を連結し、所要時間は43時間30分と戦前よりも短縮。同時に従来の車両を転用して「コロンビアン」が再設定された。1948年からは、大ベストセラーのディーゼル機関車EMD E型の導入を開始し、1957年に無煙化を達成。1952年には、史上初めて1両全体の2階がドーム状の展望構造となった「スーパードーム」を導入した。
しかしながら、これほどの莫大な投資をしたにもかかわらず、大陸横断路線の需要はなかなか増えなかった。貨物輸送は底堅く推移したが、航空機やバスとの競争にさらされた長距離旅客列車の乗車率は低迷する。1955年には「コロンビアン」が運行区間短縮ののち廃止。この時期にはユニオン・パシフィック鉄道と提携するようになったが効果は薄く、1961年には「オリンピアン・ハイアワサ」はモンタナ州ディアロッジ以西を廃止のうえ無名の列車に格下げされた。残った区間も1969年を最後に廃止されてしまう。
このころミルウォーキー鉄道に限らず全米で鉄道会社の経営が悪化していたため、連邦政府も手を打たざるを得なくなった。一つは壊滅寸前の長距離旅客輸送の存続のための鉄道旅客輸送の公営化であった。1971年の全米鉄道旅客公社(アムトラック)の設立である。
また政府は競合関係にある鉄道会社の合併を推進した。西部の鉄道会社も例外ではなく、1970年、長年のライバルであったグレート・ノーザン鉄道、ノーザン・パシフィック鉄道、および関連会社のシカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道などが合併し、バーリントン・ノーザン鉄道が誕生した。この大合併はミルウォーキー鉄道に思わぬ恩恵をもたらした。ミルウォーキー鉄道の大陸横断路線への連絡運輸の需要が増加したのである。1970年代には、この区間のシェアが50%を超えるまでになった。ミルウォーキー鉄道の大陸横断路線は、建設から半世紀近い時を経て、ようやく黄金時代を迎えたかに見えた。
終焉
しかしここからミルウォーキー鉄道は迷走し始める。上層部が需要増に対応する設備投資の実施を渋ったのである。バーリントン・ノーザン鉄道への路線売却の計画があったことも一因だったという。また老朽化した電気機関車を廃車してディーゼル機関車に置き換え、電気運転を廃止する方針を打ち出したことも裏目に出た。折悪しく1973年に発生したオイルショックのため、運行コストが急激に上昇。ついに1977年、ミルウォーキー鉄道は倒産してしまう。
この時上層部は、今日でも物議を醸す決定をした。なお利益をあげていた大陸横断路線の廃止である。1980年をもって大陸横断路線は廃止となり、ミルウォーキー鉄道は西海岸から完全に撤退した。その後はシカゴを拠点とする鉄道会社として、往年よりはるかに小さい規模で運行を継続することとなる。
しかし1980年代は鉄道会社のさらなる再編が進んだ時代であった。中小私鉄に成り下がっていたミルウォーキー鉄道はこの波に呑まれる形となる。1985年、カナディアン・パシフィック鉄道の関連会社スー・ライン鉄道に買収されたミルウォーキー鉄道は、足掛け一世紀以上にわたる歴史に幕を下ろした。
今日では「経営の不味さ故に保有路線の価値を充分に引き出せなかった失敗企業」の烙印を押されることもあるミルウォーキー鉄道ではあるが、電化に先鞭をつけ、独自の車両を積極的に導入し、鉄道史に大きな足跡を残したことは確かである。各地に残る保存車両や、ハイキングルートとなっている大陸横断路線の廃線跡に、往時の輝きを偲ぶことができる。
主な車両
電気機関車
- EF-1/EP-1/EF-2/EF-3/EF-5型
ロッキー山脈区間の電化に合わせ、1915年に登場した。製造はアメリカンロコモティブ社(ALCO)。2B+Bの台車を持つ車体を2つ背中合わせに連結したEH500同様の構造が特徴。山岳用ということもあり、最高時速は56km/hと控えめだった。当初貨物用のEF-1型30編成60両と旅客用のEP-1型12編成24両の陣容だったが、後述のEP-3型の登場で全車が貨物用となった。その後3両連結にしたEF-2型、EF-2型の中間車から先台車と運転台を撤去したEF-3型、4両連結のEF-5型の3パターンに改造された。戦後には最高時速向上の改造を受け、老朽化のため次第に運用を減らしながらも電気運転が終了する1974年まで活躍した。
- EP-2型「バイポーラ」
詳しくはEP-2を参照
- EP-3型「クイル」
カスケード山脈区間が電化された1919年に、ウェスティングハウス社とボールドウィン社が共同で10両製造した。動力伝達方式として台車にモーターを乗せる「吊り掛け式」ではなく、車体にモーターを搭載する「クイル式」を採用した。しかし肝心の台車の設計不良のため、車軸の折損や台枠の変形といった致命的な故障を繰り返し、改良に多大な経費を要した。またしばしば脱線を起こすなど安定性にも問題があり、1957年までに全車が早々と引退してしまった。
- EF-4/EP-4型「リトル・ジョー」
詳しくはリトルジョーを参照