プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス
(BC235 - 183)
ローマ共和政中期第二次ポエニ戦争において活躍したローマの将軍でありカルタゴの名将ハンニバルを破り、戦争をローマの勝利に導いたことで有名。
大スキピオの「大」というのはもろもろの理由で頻出する同名のローマ人を区別するために年長の方につける"Major"を訳したもの。
この呼称は「小」が前提となる呼称であり生前からそう呼ばれていたとは限らない。
スキピオ家は名家でもあり多くの同名の人物が知られている。妻の甥スキピオ・アエミリアヌスがよく知られているだろう。
pixivタグの使用としては、スキピオが多い。
生涯
執政官を輩出した名門・コルネリウス氏族スキピオ家の生まれ。幼少期の頃は敬虔な少年で、神殿に行き神々の夢を見ていた。
17歳の頃に第2次ポエニ戦争が勃発。ハンニバルの華麗なる戦術を目の当たりにする。
24歳で周囲の勧めもあり元老院入りをする。翌年BC211年、父と伯父グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウスがバエティス川の戦いで戦死。スキピオは元老院に働きかけ、軍団の指揮官になる。アエディリスしか公職を経験していない若者にとって異例の抜擢であった。
ポエニ戦争
BC209年、ハンニバルの弟ハルドルバルを破るが、他のカルタゴ勢を警戒して追撃しなかった。これが後にハシュドゥルバル率いるカルタゴ軍にローマ領ガリア・トランサルピナへの侵入を許すという結果を招いた。
その後スキピオはヒスパニアをローマ支配下に治める。
執政官になる
BC205年、執政官になったスキピオ。しかし元老院によってシチリア島以南への渡航は禁じられており、指揮する軍団も与えられていなかった。
そこでスキピオは義勇兵を募り、シチリア島で兵の訓練をした。その中には、カンナエの戦いで苦渋を舐めさせられた兵たちが大多数を占めた。
ザマの戦い
カルタゴはスキピオの登場で苦戦を強いられていた。そこでカルタゴはハンニバルを呼び戻すことにする。
遂にスキピオとハンニバルの直接対決、リベンジマッチが実現することとなる。
- ハンニバルの兵力:歩兵58,000人、騎兵6,000騎
- スキピオの兵力:歩兵34,000人、騎兵8,700騎
両者はまず話し合いでの解決を望んだが、交渉は決裂。
戦いの詳細は動画を見て欲しい。
戦後スキピオはハンニバルに対し寛容な方針で臨んだ。しかしそれが反カルタゴ勢力、ハンニバルに家族を殺された者たちの反感を買うことになってしまう。
晩年
ローマに戻ったスキピオは熱狂的な歓迎を受け、凱旋式の挙行を許される。そして「アフリカヌス」の尊称を授かり、以降スキピオ・アフリカヌスと名乗った。救国の英雄である彼には、他にも終身執政官、さらに終身独裁官の提案が何度もなされたが、スキピオはそれらを全て断っている。そしてBC199年にケンソル(監察官)に選ばれたが、その後数年間は静かな隠遁生活を送った。
しかしスキピオのキャリアに水を差す出来事が起こる。
ルキウスが不適切な金銭を受け取っていたという告発を護衛官から受ける。これに怒ったスキピオは告発側にブチ切れ、戦費の記録を破り捨てる。
しかし今度はスキピオ自信が賄賂の疑いで嫌疑にかけられる。
これはスキピオの政敵カトが仕組んだ罠であった。裁判に掛けられ、有罪になるところを護衛官・大グラッススが「ローマの英雄をこれ以上罪に問えようか」と元老院にはたらきかけ、果たしてスキピオは無罪になる。
しかしこれ以降、スキピオは表舞台から姿を消すこととなる。
晩年のスキピオはカンパニア地方のリテルヌムで過ごすようになり、2度とローマには戻らなかった。
一説には自らの墓石に「恩知らずの我が祖国よ、お前は我が骨を持つことはないだろう」と刻ませたと言われている。
墓はどこにあるのか分からないが、アウグストゥスが参拝したということだけは伝わっている。
創作のスキピオ
大体がハンニバルと対、セットで登場することが多い。
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