日韓歴史共同研究
にっかんれきしきょうどうけんきゅう
2002年から2010年の間に2回行われた歴史の研究。
日韓首脳会談の合意に基づいて行われた日本と韓国の共同研究でもある。
2回とも不成功に終わっており、委員の一人である木村幹は「日韓の政治的意図の介在」「共同研究の制度的不備」「対立を解決する為の手段の準備不足」の3点を原因に挙げている。
意見が対立した時に多数決で決めるか全会一致で決めるかといった基本的なルールすら存在しなかったらしい。
第1回研究(2002~2005)
日本側として参加した歴史学者の古田博司によると、意見の対立の際に日本側が資料を見るよう言ったら韓国側が怒鳴り出したという。
この事について古田氏は怒鳴った韓国側の研究者の事をこう評している。
「民族的感情を満足させるストーリーがまずあって、それに都合のいい資料を貼り付けてくるだけなので、それ以外の様々な資料を検討していくと、矛盾、欠落、誤読がいっぱい出てくる」
「要するに『自分が正しい』というところからすべてが始まっており、その本質は何かといえば『自己絶対正義』にほかならず、したがって何をやろうと彼らの『正義』は揺らがない」
後に誰かの印象に残ったのか、韓国側の研究者が言ったとされている「韓国に対する愛情はないのか」という言葉が、日本のネット上で見かけるようになった。
第2回研究(2007~2010)
「結局のところ、韓国側の研究者は扶桑社の『新しい歴史教科書』を攻撃するばかりでした。研究ではなく一種の政治ショーです。」(永島広紀)
韓国側の研究者が「示しがつかない」と第1回にはなかった「教科書」を研究テーマにするよう要求した。それによって古代史、中近世史、近現代史の研究グループに加え、教科書小グループが作られた。
しかしその後、教科書担当以外のグループの研究者がやたらと教科書問題に口を出し始めた上に、韓国側の古代史グループが勝手に教科書問題を研究テーマに加えようとした。
日本側が強く抗議したら、古代史担当の委員の一人が突然「人格攻撃を受けた」と言い出し、長期にわたって会合が紛糾することがあった。
どうやら韓国側は特定の教科書の記述を攻撃するのが目的であって、研究なんてどうでも良かったようだ。
簡単に言うと、日本と一緒に歴史の研究をする為に来た韓国の研究者が、仕事中にデモを始めたのである。
韓国の教科書は嘘だらけで、最新の研究では否定されていることが平気で書いてあった。
(韓国の教科書の嘘の一例:全く別物である「女子挺身隊」と「慰安婦」が混同されていた)
だから研究者同士が歴史事実について議論すれば、日本側が優勢になるのは明らかだった。
しかし劣勢を自覚した韓国側は途中から歴史学者ではないフェミニズム運動の女性研究者を送り込み、歴史や教科書の問題を女性の人権問題にすり替えようとしてきた。
恐らく日本側を言い負かす事に手段を選ばなくなってしまったのだろう。
2回目の研究に参加した朝鮮史学の永島広紀によると、韓国側の研究者は朝鮮戦争やベトナム戦争の時に韓国軍に慰安婦がいた事を知っていたという。
更に韓国では“史実”として扱われている5000年前の朝鮮民族の始祖とされる檀君についても、彼ら韓国側はオフレコでは「そんなの誰も信じてませんよ」と軽口をたたいていたが、記録が残る場では絶対にそんな発言はしなかったそうだ。
つまり韓国側は自分達が嘘を主張していると解ってて、それを押し通そうとしていた事になる。しかし同時に、彼らにも事情があって仕方なくやっていた可能性が出てきた。
韓国にいる日本人識者としてしばしば韓国のテレビ番組に出演し、CMにも出演した事もあった言語学者の水野俊平が右翼と疑われた途端にテレビの出演がなくなった例がある。
もし真実だからと韓国に不利な事を言ってしまったら、韓国側の研究者は「売国奴」或いは「非国民」のレッテルを貼られ、仕事を失っていたかもしれない。
韓国側の事情が見えたのか、永島氏は韓国の事を「対日的な場での言論の自由がない国」と評した。
不成功の原因の一つに「日韓の政治的意図の介在」が挙がっていたが、日韓が共同研究した時点で政治的意図の介在は避けられなかったのかもしれない。
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