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オランダ海軍が保有していた海防戦艦の艦級。1909年に進水した。

基準排水量5,690トン、全長102m、全幅18.1m。実はこれでも、オランダ海軍が今まで建造した中で最大の戦艦・・・・なのである。


概要

植民地防護のために建造したもので、ヨーロッパ屈指の弱小海軍のオランダが残された時術の英知の結晶が生み出した、海防戦艦。それがこのデ・ゼーヴェン・プロヴィンシェンである。


特徴的なのは駆逐艦ほどの艦に、前弩級戦艦級の火力を詰め込んだことだが、この事はのちの実戦で、大海での決戦には不向きであったことと、巨大な艦砲のせいで艦船との相性の悪さを垣間見えることとなってしまった。だが、オランダ海軍は戦力の低さを坂手に不利を承知してなお立ち向かっていった。日本海軍の河内型戦艦に匹敵する28.3cm砲も、まともに受ければタダでは済まない威力がある。これで万全な準備を整えたオランダ海軍(といっても戦艦を保有する程の力ではなかったが)は、来るべき日本やドイツに向けて決戦に向けた。


だがここで大きな運命を向かることとなる。1911年からいきなりインドネシアに配備され、この状況は1918年まで続いた。その後、故郷のオランダにとどまっていたのだが、1921年にインドネシアに再配備された。1933年2月4日に艦上で反乱が発生したが、14日に航空爆撃による攻撃を承認し、実行されて犠牲者23人を出して鎮圧され、ますます戦果が発揮できなかった。こうなってしまえば、海防戦艦としての戦力が皆無に等しいとしか言いようがなかった。こうして、1936年、スラバヤと改名され、同年7月に練習艦に類別変更された。


しばらく、練習艦としての時間を過ごしてきたが、第二次世界大戦勃発後の1942年2月18日、日本軍の空襲で巻き添えになり、船体の7割程大破されてしまっていた。その後、日本軍のジャワ島上陸の翌日となる3月2日に港湾閉塞のため自沈処理が、日本軍によって浮揚され、使用可能であった兵装の回収後、再度自沈するという、踏んだり蹴ったりな最期を迎えてしまった。


こうして、大した戦果を上げる事なく時代に翻弄され続け、誰も評価されることなく海の底へ落ちていった。だが、この仕様は当時のオランダにとって仕方のないことであり、やれ相性がなんだの、想定がなんだのといった後付けの理屈は的外れというものだろう。実際、オランダが考え考え抜いた結果が小さくて力持ちな彼女であり、現在でもオランダでは知る人ぞ知る人気が少し出ている。


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