概要
もともと河南省済源市を源流とする済水という川がこの地を流れていたため、その南に前漢時代に済南郡が置かれたのが名の始まりで、後に黄河の流れが変わったとき、済水の河川敷はそのまま現在の黄河下流となった。
周代から次第に繁栄し、西晋時代には仏教が広まるとともに多くの仏教寺院がこの地に集中し、仏教の中心の一つとして、北宋時代には詩や書画などの文化の都として、また商業都市としても知られた。
また「世界最古の広告チラシの印刷用の原版」もここで出土している。
明代からは山東省の省都となり、商業都市として清代、中華民国時代にも続き、近代以降は日本人を含む多くの外国人が商取引のため居住、日本総領事館、日本郵便局、国民学校、華北交通支店、日本陸軍師団本部が置かれたほど。
日中戦争で破壊をまぬがれ戦前の建物が市内中心部に多く残されて、改革開放後は商工業都市として順調に成長
一方で民国の内戦中の1928年に日本人居留民が巻き込まれる『済南事件』が起こったことから、反日感情も高い。
2004年に中国で「AFCアジアカップ2004」が行われサッカー日本代表が優勝したが、グループDと準々決勝を重慶、準決勝を済南と反日感情の強い地域で試合を行い、苛烈なブーイングを受けた。(詳細はこちら。)
2019年1月、萊蕪市の萊城区、鋼城区は済南市に編入された、萊城区が萊蕪区に改称。