概要
稀神サグメのスペルカード。サグメが大量の高速使い魔(陰陽玉)を放つ。陰陽玉は撃ち落とすと札弾を撃ち返してくる。陰陽玉(穢れ、汚れ)を(過度に)弾き落とすと、回避しなければならない弾が増えていき逆に苦労することになる。『漁父辞』の屈原の身の上をイメージしているか。
また、「古事記」における天探女(アマノサグメ)のエピソード。
葦原中国平定の任を命じられて地上に降りた天稚彦(アメノワカヒコ)が8年間帰ってこない。彼は国津神・大国主の娘と結婚していたのだ。その矢は天上の高天原まで到達し、天羽々矢の元の持ち主である高御産巣日神(タカミムスビ)の元へ届いた。
- 弾冠、冠を弾く
冠についた塵や埃を弾いて落とすこと。
「新沐者必弾冠 新浴者必振衣」から。(出典:中国故事『漁父辞』の一節)
書き下し文「新たに沐(もく) する者は必ず冠を弾き、新たに浴する者は必ず衣を振るふ」
現代語訳「髪を洗った者は必ず冠の汚れをはじき落としてから被り、新たに入浴した者は必ず衣服を振って塵や埃を落としてから着る」
意味:「髪や体を洗った者は、冠や衣の汚れを落としてから身に付ける」というのは比喩。「清廉潔白な人物は自分が汚れることを必要以上に恐れる」(結果、人や世間から遠ざかり、遠ざけられる)ことを意味する。
- 『漁父辞』のあらすじ
『漁父辞』には二人の人物が登場する。楚の国に仕えていたが中傷され左遷されてしまった「屈原(くつげん)」という人物と、川のほとりで屈原と会話をするとある漁父。
「世の中の皆が穢れている中で私だけが清らかだった。皆が酔っている中で私だけが酔わずに醒めていた。私はそのために中傷され左遷されてしまった。」と嘆く屈原に、漁父は「聖人という者は、物事にこだわらず世間と一緒に移り変わるものです。貴方も穢れた世間の中で世間の人と一緒に安酒を呑んで酔えばよかったのに、なぜそれをせず自分から追放されるようなことをしたのですか?」と尋ねた。屈原は「髪を洗った者は必ず冠の汚れをはじき落としてから被り、新たに入浴した者は必ず衣服を振って塵や埃を落としてから着るものです。清廉潔白な身の私が、なぜ穢れた物を受け入れなければならないのですか。世俗の塵や埃を受け入れることは清らかな私にはとてもできない。この川に身を投げて死んだとしても、それは無理なことです。」と答えた。漁父は笑うと「川の水が綺麗なら、私はその水で大切にしている冠の紐を洗います。川の水が穢れているなら、私はその水で汚れている自分の足を洗います。」と言い残し、舟に乗って去って行った。屈原と漁父が会うことは二度となかった。
転じて、「自分の身を潔白にして仕官の準備をする」ことを意味するようにもなった。弾幕のもじり。