概要
『東方茨歌仙』に登場した際のものである。
神出鬼没とは、その居所、所在がつかめず、予測が困難である様子を指す。
鬼神のようにその出没が変幻自在である様である。
紫はその能力を通して文字通りの神出鬼没を実現する存在であり、それは弾幕の回避から他人の目の前への突然の出現、あるいはお菓子のちょろまかしに至るまで自由自在である。
それは博麗大結界もものともしない様子(『茨歌仙』十四話)であるとともに「絵や夢、物語の中に移動できる」(『東方求聞史紀』)という、物理的概念の「境界」さえも越えてその存在を出現させることができるものである。
稗田阿求も「幻想郷縁起」では神出鬼没の語を用いて紫のパーソナリティを解説している他、「 妖怪らしい妖怪 」の代表格として紫を挙げるなど、古来から人間が想像する人間と根本的に異質にして圧倒的な存在であるところの「神出鬼没」の「妖怪」を体現するものとして紹介している。
一方で紫に見られる人懐っこさや愛嬌のある様子には、妖怪が単なる恐怖的・敵対的存在ではないという日本的妖怪観も同居するものともなっている。
しかし同時に単なる恐怖の対象でなく温和で友好的な一面も持つが故にその心のうちやパーソナリティはより飄々とした感も与えており、掴みどころのない性格も相まって、紫はその能力を含め人々の心にとっても神出鬼没そのものとも言える存在なのである。
『茨歌仙』での紫の動向については「茨歌仙紫」記事も参照。
本二つ名に見る「神出鬼没」の語はその後も紫と共に語られることがあり、例えば『東方憑依華』での紫の二つ名は「 神出鬼没で裏表のある妖怪 」と、本記事にもみる『茨歌仙』での二つ名に「 裏表のある 」という、その胡散臭さの故に極めて紫らしいフレーズを間に迎え入れたものとなっている。
『茨歌仙』でも紫を通して幻想郷を含む様々な裏事情が語られる一方で博麗霊夢には自ら懲らしめるよう仕向ける表の顔もみせるなど、神出鬼没にしてその裏表両面の紫の姿も描かれている。