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西田修平

にしだしゅうへい

西田修平とは1936年のベルリンオリンピックの棒高跳びで活躍された棒高跳び選手(メインイラストはイメージです。)
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人物概要編集

1910年(明治43年)3月21日和歌山県東牟婁郡那智村(現在の那智勝浦町)出身の棒高跳び陸上選手

 弁護士である西田郁平、楠枝の長男として生まれ、和歌山中学校(現在でいう和歌山県立桐蔭高等学校)に入学し、全国中学校陸上競技大会の棒高跳びで3m20を出し3位となった。卒業後、織田幹雄に感化されて早稲田大学理工科に進学。その後棒高跳のエキスパートとして知られ、在学中に1932年に行われた[ロサンゼルスオリンピック]に出場し、4m30(当時の日本記録)をだし、銀メダルを得た。卒業後は日立製作所に入社しました。

そして1936年ベルリンオリンピックでは 大江季雄と2・3位を分け合い、帰国後にお互いのメダルを切断して「友情のメダル」を作成したことは、道徳の副読本に掲載されたこともあるほど有名な話しである。

 またベルリンオリンピックでの勇姿についてはレニ・リーフェンシュタールによる記録映画『オリンピア』にも収録されているが、実際の競技は夜にまで及び撮影ができなかったので、後で撮影しなおしたものをオリンピアでは使っている。先程のベルリンオリンピックのことについて詳しく説明すると、競技の当日、4m25cmで3人が並んで、順位決定戦の1本目で西田と大江の2位、3位決定戦を行ったが、日没や日本人同士の順位争いだったため西田は二人で2位を分け合うことを望み打ち切りを提案する。結局4m25を1回目で飛んだ西田に銀が与えられたが、西田がこれを不服とし、表彰式で大江を2位の台に上げ自らは3位の台に立っている。帰国後に銀メダルを持ち帰った大江の兄が間違いに気付き西田の元にメダルを届けるが、悩んだ西田が知人の経営する宝石店で2つを切ってつなぎ合わせ、「銀・銅2色の友情のメダル」が誕生した。

 西田は競技生活を終えた後も審判・監督職で活躍し、1959年には、日本陸上競技連盟理事長に就任した(後に日本陸上競技連盟名誉副会長に)。日本オリンピック委員会委員としては、1980年5月24日「モスクワオリンピック」参加不参加を問うJOC総会の投票で不参加に投票した。1989年には日本オリンピック委員会よりオリンピック・オーダー銀賞を受賞しました。

 そして1997年4月13日、心不全のため死去した。87歳没でした。

現在でも「西田修平・高橋公一記念国際室内棒高跳競技大会」が毎年開催されています。

余談編集

 西田の子息に学士プロの第1号としてプロゴルファーに*なった西田升平がいます。

関連タグ編集

棒高跳び 大江季雄 ベルリンオリンピック

友情のメダル ロサンゼルスオリンピック

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