概要
近江の土豪の息子であった藤堂高虎は、10代のころから浅井長政をはじめ各地の武将に仕えて戦功をあげてきたが、仕えていた武将が滅ぼされたり冷遇されたりと上役に恵まれない日々を送ってきた。
そんな中で出会ったのが、織田信長によって北近江の大名に抜擢された羽柴秀吉の弟・秀長であった。秀長は300石を高虎に与え、その後の中国攻め、本能寺の変後の秀吉の天下取りの戦いで秀長が大和郡山城主120万石の大大名になった時には、高虎も2万石を与えられており、秀長の重臣の一人として活躍した。
秀長の没後、高虎はその養嗣子となった秀保に仕えたが、秀保が早死にした為一度は世を儚んで出家したものの秀吉に請われて還俗、その後は秀吉、次いで徳川家康に忠実に仕えて、最終的に伊勢32万石の大名にまで出世した。
秀長以前は仕える武将をとっかえひっかえし、秀長と秀保の死後は、秀吉と家康の間で強かに動いたことで高虎の対人関係に関する評価は一般に芳しくないが、少なくとも高虎は智勇をふるって秀長のために戦い、秀長も高虎の戦功に十分報いていたと言える。