概要
久邇宮邦彦王の第三王子、母は俔子妃(公爵島津忠義の八女)、爵位は伯爵、青蓮院門主。
経歴
明治43年(1910年)に誕生、東伏見宮依仁親王と周子妃の元へ預けられ養育された、旧皇室典範では皇族の養子縁組は禁じられいたため宮家を相続は出来なかった、依仁親王の薨去後に臣籍降下をして東伏見宮の祭祀を継承し東伏見の家名を名乗り伯爵に叙爵された、京都帝国大学(京都大学)を卒業し同大学の講師として活動した。
昭和20年(1945年)に青蓮院で得度して僧侶となり昭和28年(1953年)に同院の門主となった、昭和60年(1985年)に京都仏教会の会長となる。古都税反対運動の先頭に立ち指導に当たり、1988年(昭和63年)3月末限りで古都税を廃止することで収束した。
平成16年(2004年)に門主を退任、平成26年(2014年)に死去。臣籍降下をした記録の確かな元皇族の中では歴代最長寿記録となっている。
なお、晩年の慈洽は世襲が想定されていない青蓮院門主の地位を息子の慈晃に譲ろうとして、これを阻止しようとする天台宗教団と軋轢を生じた。最終的には要求が容れられなければ青蓮院を天台宗から脱退させるという慈洽の強硬な態度に天台宗側が屈服し、慈晃の門主世襲が実現することになった。
他にも青蓮院復興に努力した執事長との争いがこじれ、ストライキ騒ぎが起きたり、日本労働組合総評議会が門前に赤旗を並べたこともあった。多くの文化財が青蓮院の所有を離れた経緯が不明瞭であるとして国会で追及されたこともある。古都税を廃止という大きな功績を残した一方で、長兄に当たる朝融王や父の邦彦王同様にトラブルメーカーだったことがうかがえる。
血縁
父母
妻
子女
- 東伏見韶俶
- 東伏見慈晃
- 東伏見睿俶
- 東伏見邦子(西川昇夫人)