大日本帝国海軍
第一航空艦隊として、1941年4月に南雲を初代司令長官として編成された。
第一航空戦隊(一航戦)「加賀」・「赤城」と第二航空戦隊(二航戦)「飛龍」・「蒼龍」を中核とした。その後、1941年9月に第五航空戦隊(五航戦)「翔鶴」・「瑞鶴」が編入されている
。世界初の空母機動部隊であったが臨時配属の艦艇も多く、存続期間を通じ部隊としての意思統一が難題となった。
また南雲は専門は水雷の大艦巨砲主義者であった。編成に尽力した人物は航空主兵主義者の山本五十六でありそれに同調した小沢冶三郎だった。山本は第一航空艦隊の長官には小沢を推していたが卒業席次が南雲のほうが上であることや、編成当時は未だ海軍の主流を占めていた大艦巨砲主義の中で空母部隊と水上艦との意思疎通に必要という理由などから海軍省・軍令部は南雲を任命したという。南雲は真珠湾攻撃までは航空機部隊の指揮の経験は皆無であったため、この人事は戦後長らく批判された。ただし小沢も水雷出身だったし、軍縮条約や航空戦力の整備では山本に同調したものの、実際のところ米内-山本-井上-山口らの政治色の強さには批判的な意見を持っていたようである。
1941年12月の真珠湾攻撃ではアメリカ太平洋艦隊を機能不全に追い込み勝利。その後南太平洋・インド洋戦線で連戦連勝を続けたが1942年6月のミッドウェー海戦で参加していた全空母(一航戦・二航戦4隻)を喪失する大敗を喫した。
この敗戦後、第一航空艦隊は、正規空母の生き残りの翔鶴型を中心とし、いままで臨時配属だった護衛の戦艦金剛型・重巡洋艦利根型・駆逐艦らを正規に編成に含む第三艦隊に再編された。司令長官は名誉挽回のため南雲が留任した。この編成でアメリカの機動部隊と第二次ソロモン海戦・南太平洋海戦を戦い、互角の戦いを繰り広げた後、南雲から小沢へと司令長官は交代した。この後、マリアナ沖海戦まで機動部隊同士の戦いはない。南雲機動部隊は、大戦前半の機動部隊の激しく華やかな戦いを象徴する名前であった。
「艦隊これくしょん」の南雲機動部隊
主に実在の第一航空艦隊のうち一航戦・二航戦の空母4隻を指す(「任務」としてこの4隻による部隊編成ミッションがある)。
途中合流でミッドウェー海戦に参加していない五航戦の子は数えられない場合が多い。