概要
後世、「水戸黄門」と呼ばれて親しまれている水戸藩第二代藩主。
字は子龍。梅里と号した。
水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男であり、江戸幕府初代将軍・徳川家康の孫にあたる。
藩主としては勧農政策を推進し、士風の刷新をはかった。
また、儒学を奨励して明暦3年(西暦1657年)に彰考館を置き、『大日本史』の編纂事業に着手、さらに明の遺臣朱舜水を招くなど、水戸学精神の基礎を定めた。
「名君」として評され当時の庶民の間でもその知名度は高く、亡くなった際には
「天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」という狂歌が流行した。
義公と諡(おくりな)されている。
人物
少年時代は町中で刀を振り回す、辻斬を働く、吉原遊廓(色街)に入り浸るなど、不良の振る舞いをおこなっていた。(これには、兄・頼重らを差し置いて自身が後継者に選ばれたことに対する複雑な感情があったためとされる)
しかし18歳の時、『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、以降はそれまでの素行を改めて学問に精を出すようになる。また、これをきっかけに日本の史書を編纂したいと考えるようになった。
珍しい品物を好み、とくに海外の文化に対する興味が強く、オランダ製の靴下を愛着し、インコを飼育していた。亡命してきた明の儒学者・朱舜水から中華麺(ラーメン)のレシピを学び、これを特技としてしきりにうどん(後楽うどん)を作っては客人や家臣に振る舞った。
食べ物に関しては前述のラーメンをはじめ、餃子、チーズ、牛乳酒などを日本ではじめて食した人物であるとも言われている。また、ワインを愛飲していたらしい。5代将軍・徳川綱吉の制定した「生類憐みの令」を無視し、牛肉・豚肉・羊肉などを食べていた。俗説では、野犬20匹分の毛皮を綱吉に献上したともいわれる。
文化事業への貢献から名君という評判が高いが、その原資は幕府からの借金であり、逼迫する財政から農民に過酷な搾取を強いた側面も指摘されている。そのため歴史研究者からの評価は必ずしも高くない。
創作作品における光圀
隠居した後の彼を題材にした作品で、光圀がお供を連れて日本各地を漫遊した講談『水戸黄門漫遊記』が有名だが、実際は世子時代の鎌倉遊歴や藩主時代の江戸と国元の往復や領内巡検をしている程度で、漫遊したという史実はない。
しかしながら、本作を題材にした時代劇『水戸黄門』が制作されると、弱きを助け強気を挫くという様式美とも呼べるストーリー展開が人気を博し、時代劇の定番として定着した。
pixivでも光圀本人よりもこの『水戸黄門』における好々爺としてのイメージが強く、白い口髭をたくわえた老齢の男性として描かれるのがほとんどである。
また、水戸市のマスコットキャラクターとして彼をモデルにしたハッスル黄門がいる。
昨今は、沖方丁による歴史小説『光圀伝』において、これまでとは異なる若々しい姿の光圀が描かれており、光圀像の新たな火付け役として期待されている。
(おもに地元から)