解説
その名の如く、夜間戦闘を主眼とした戦闘機。
第二次世界大戦期に発案され、その後の全天候型戦闘機の礎となった。
発祥の経緯
大戦期、航空戦力の進化とともに、航空機自体の航続距離も延び続け、爆撃機部隊の随伴・護衛機の開発も急ピッチで進められていた。
そこで各国は、航続距離と安定性に定評のあった双発式戦闘機の開発に乗り出す。しかしエンジンが二つ付いた大型の戦闘機ゆえに、単発式に比べて機動力に欠けて鈍重であるという欠点が明るみに出てしまい、双発式による随伴機の開発は断念された。
その後単発式は、可変ピッチプロペラの開発や増槽(外付けの燃料タンク)の採用により、燃費や航続距離が向上し、双発型随伴機の必要性が薄くなった。
これを機に、各国は双発式を夜間襲撃用の戦闘機に活用するようになっていく。
特徴
単発式では、視界などの情報処理、攻撃行動をはじめ、すべてを操縦士一人でこなす必要に迫られるため、夜間における戦闘機での攻撃は極めて困難とされてきた。
しかし双発式は、その大型の機体ゆえに複座式にすることが容易であり、二人以上で操縦士と機銃士に役割を分けることで、乗員の負担を軽減させることが出来た。加えてエンジン出力の倍増で、積載量の上限も増し、当時先端技術であった航空機用レーダーの搭載して、夜間でも正確な攻撃を成功させることが可能になった。
既存の機種を夜間戦闘機として改装した機体と、夜間戦闘機として開発された機体の二種に分けられる。
主な特徴としては――
……などが挙げられる
もう一つ、日本とドイツの夜間戦闘機には、上空から襲撃に来る爆撃機を迎撃するために、機体上部に斜めに取り付けた機銃が存在した。ドイツではこれを『シュレーゲムジーク【Schräge Musik】(斜めの音楽=ジャズ音楽の俗称)』、日本では陸軍で「上向き砲」・海軍で「斜め銃」と呼称した――って、……またか、日本帝国軍。
対義語として「昼間戦闘機」という言葉も生み出された。
なお、弱点である運動性の低さ(=格闘戦での弱さ)は是正できなかったため、夜間戦闘機にとって昼間出撃は自ら的になりに行くようなものでしかなかったようだ。
その後
第二次大戦期にはその特異な能力から大きな功績をあげ、ジェット戦闘機の時代になってもしばらくは一ジャンルとして確立し続けた。
しかしレーダーを利用した火器管制の発達と、徐々に夜間のみならず悪天候や地域による気候差にも対応した全天候型戦闘機が登場しはじめると、夜間戦闘機もこの研究と発展のために吸収され、その役目を全天候型に引き継がせて、『夜間戦闘機』という用語は姿を消すこととなった。
主な夜間戦闘機
日本軍
月光
元々は双発複座戦闘機として開発されていたもので、いざ完成すると思ったより「使えない」ことが明らかになった。同じころ、前線では夜間に来週するB-17の重防御にはほとほと手を焼いていた。
なにせ、下手をすると迎撃にあがったゼロ戦ですら返り討ちにされてしまうのだ。そこで、ラバウル基地司令官の小園安名(当時は中佐)は独自研究から上向きに機銃を搭載し、敵爆撃機下を並行しつつ掃射する戦法を編み出した。夜の闇にまぎれて接近し、昼間では接近不可能な近距離から強力な弾丸を見舞おうというのである。
その改造元に使われたのが当時の「二式陸上偵察機」こと本機である。1943年当時、本機の性能では偵察機としても通用しなくなっており、格納庫でホコリを被るままにされていた。小園中佐はこれに目をつけ、複数の20mm機銃をもって爆撃機に対抗できないかと考えた。小園中佐は改造許可を求め、司令部に数度にわたる直談判を行ったが、反応は総じて冷たいもの。
中佐はとうとう業を煮やして独断で改造し、1943年5月に再進出した際にラバウル基地へ持ち込んだ。そして運命の5月21日、この日の夜間空襲で2機のB-17をたった1機で撃墜し、中佐の正しさを証明してみせたのだった。
この戦果を知った海軍司令部の反応は素早かった。
当機には即座に『月光』との正式名称が与えられ、現存する二式陸上偵察機のすべては『月光』への改造が命じられたのだ。生産もこの規格にあわせた上で再開されることになり、『月光』は日本海軍を代表する夜間戦闘機になった。
以降、『月光』は夜間来襲する爆撃機(B-17・B-24・B-25・B-29など)への対抗として、また前線では夜間に機雷を敷設する小艦艇への対抗としても盛んに出撃を繰り返したのだった。武装は20mm機銃を上向き3門・下向き1門だが、軽量化を兼ねて上向きだけにしているものが多かったという。
イラストは既存の機から改造された「前期型」あるいは「段付き」と呼ばれるもの。これは無線手席をつぶして20mm機銃を搭載しており、もちろん外形はそのままとなっている。のちに再生産された機はここを平滑にされているので、これは識別点でもある。
彗星
戦闘機に準じる機体強度と高速性能を持っていたことから、「月光」の後継機として着目されたのが、艦上爆撃機の彗星だった。機体後部に20mm機銃を斜め銃として取り付けている。また試製段階では30mm機銃だったという。
主にアメリカのB-29爆撃機の迎撃に用いられ、三〇二空、三三二空、三五二空等の本土防空部隊に配備された。
沖縄戦では、彼の芙蓉部隊が嘉手納飛行場を奪還すべく、周辺敵部隊に粘り強い夜間襲撃を仕掛けていった。その中でP-61「ブラックウィドー」(下記参照)を一機撃墜したという。
イラストはおもに活躍した『一二戊型(いちにぼがた)』で、大戦末期には彗星三三型を改造した『三三戊型(さんさんぼがた)』が開発され、少数だが実戦配備されたという。
屠龍
こちらも同様の開発経緯をもつ陸軍の双発戦闘機で、夜間戦闘機としてのみならず、昼間戦闘機としても爆撃機への対抗に使われていた。当初は斜銃を搭載せず、普通の重戦闘機(一撃離脱型戦闘機・迎撃機)として使われていたが、海軍が斜銃で戦果を挙げるようになると同様の武装を施すようになった。
夜間戦闘機としては本土防空戦が主な活躍だが、レーダーはとうとう主要装備にはならなかった。当時の技術では性能を安定させたり、または精度を高めることは至難だったのだ。したがって夜間の接敵は主にパイロットの夜間視力やサーチライトにかかっており、ただでさえ困難な夜間飛行の難しさを極めたのだった。
(実は月光でも同様)
なお、海軍では武装を斜め銃だけに絞っているものが多いが、陸軍では前方銃も残しているものも多い。
アメリカ軍
※当該項目に詳細があります。
P-61「ブラックウィドー」
戦闘機らしからぬ3人乗りの大型機。12.7㎜機銃・20㎜機銃各4門を装備しており、火力は十二分である。電子装備は先進的だった反面、鈍重なので返り討ちにされてしまう事もあったという。
F-82「ツインムスタング」
朝鮮戦争に投入されたP-61の後継機。元は長距離護衛機だが、夜間戦闘機とするにあたって右コクピットをレーダー手席に改造している。朝鮮戦争では夜間の哨戒(パトロール)に使われたが、北朝鮮空軍の活動は低調だったため戦果はほとんど記録されなかった。だが朝鮮戦争での初撃墜は本機によるものである。
F6F-3N,F6F-5N「ヘルキャット」
イギリス軍
※当該項目に詳細があります。
モスキート
ドイツ軍
※当該項目に詳細があります。
Bf110
ナチスドイツの戦闘爆撃機、Bf110(Me110とも)の特性を生かしてレーダーを搭載し、夜間戦闘機(G-4型)としたもの。武装も機首の30mm機銃2門・20mm機銃2門のいずれかに加えて「シュレーゲ・ムジーク」(日本海軍でいう斜め銃)も装備できるようになった。
重装備ではあったが設計が古く、またレーダーアンテナが無駄な空気抵抗となって性能を落としたせいで最高速度では500km/hを下回ってしまう。より高性能の機が必要とされ、早々に道を譲ることになってしまうのだった。
Ju88(スツーカ)
さらなる後継として期待されたのが、本来は爆撃機だったJu88である。
当時すでに爆撃航空隊は壊滅状態であり、いくら出撃しても戦果を望めない状況の上に、その上本土が空襲の対象とあっては、こうして引っ張りだされるのは仕方のない事だった。
だが、より設計の新しいJu88は夜間戦闘機としても好適で、高出力エンジンに搭載余力のある胴体
の組み合わせは夜間戦闘機部隊に新しい力を与えた。武装は20mm機銃(4~6門)が基本だが、「シュレーゲ・ムジーク」を搭載する機もあった。最大速度は540km/h(G-6)。
He219(ハインケル・ウーフー)
ドイツ夜間戦闘機の第3弾。期待の本命ではあったのだが、エンジン供給に失敗して凡庸な性能にとどまってしまう。また、戦闘機にしては非常に大型であり、このことは運用や生産に影を落とす事になる。それでも最高速度は580km/h程度と健闘したが、この程度の性能向上では生産のし難さ・乗員訓練のやり直しの手間には引き合わないのだった。
モスキート(上記)を返り討ちにする事例もあったのだが、実際の勝敗は状況にも左右されるので、決定的な性能の優劣はつかずじまいとなった。いちおう本来のエンジンで最高速度600km/hを超えるつもりだったようだが、代用エンジンがJu88と同系統のものでは望めない願いだった。
ドイツではほかにも様々な機を夜間戦闘機に改造したが、主力は以上の3機種である。
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