生涯
公家の最上位の摂家に次ぐ清華家に属する、徳大寺家の次男として嘉永2年10月23日に誕生。4歳の時に、同じ清華家の西園寺家へ養子に入り家督を相続した。
幕末には年少のため特に目立った働きはなかったが、西園寺の一言で徳川氏追討の廟議が決し、これが動機となって鳥羽伏見の戦いは官軍の勝利となった。またその年の夏には会津戦争に追討参謀として参加している。
維新後は新潟府知事などを歴任し公卿の中で初めて散髪・洋装で宮中に参内したという。大村益次郎の推薦によってフランスに留学。以降10年近くにわたってパリにとどまり、フランスの知識人や中江兆民らの日本人留学生と交わり、フランスの革命の思想を受け継いで帰国した。維新後の政治家で西洋に行き、西洋の学問をして、思想の間違った方に行った人はたくさんあるが、西園寺もやはりそうであった。
帰国後は中江兆民と組んで民権派の新聞に関わるが、明治天皇の内勅により身を引く。伊藤博文・松方正義のもとで外務大臣、文部大臣などを歴任。貴族院議員(貴族院侯爵議員、のちに貴族院公爵議員)を務め、貴族院副議長に就任した。
その後、伊藤博文の後継として立憲政友会の総裁に就任した。桂太郎の後任として内閣総理大臣に任じられ、第一次西園寺内閣(明治39年)、第二次西園寺内閣(44年)を組閣した。西園寺と桂とが交互に政権を担当したことから、この時代は「桂園時代」と称された。
明治から続いた西園寺の政党内閣が潰れ、大正元年の桂内閣となったが、非常に非難が起こった。桂首相が議会を開いた時には日比谷の界隈で国民が非常に騒ぎ、これに弾圧を加えた。政友会の有力者は内閣に詰め寄って直接談判をし、政友会と桂内閣の対立は非常なものであったが、大正天皇の思し召しであろうと行わず、それは政友会の内部でも西園寺に対する非難が起こって、桂内閣はそれで辞職、西園寺も総裁をやめた。
桂はそれと同時に政治力がなくなったが、ズルい西園寺は政友会の総裁はやめても元老になってしまった。政友会が桂内閣を潰し、西園寺は自分で内閣をやらず、そうする以上は政界を隠遁するのがあたりまえであったのに、それを元老になるなどズルの顕著な例であり、元老としての一つの大きな勢力となった。
これが西園寺の政界における中心になった初めであるが、自分は大正天皇の勅命に反しながら、自分が元老の地位を得るのであるから、ズルの標本である京都の公卿でなければできないことであり、これが大正以後に天下の乱れた端緒であった。
大正13年に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼した。
教育方面では、西園寺は教養ある「市民」の育成を重視し、科学教育や英語教育、女子教育を重視した。
外交方面では、満洲事変(昭和6年)以前の日本の外交は外国のご機嫌取りで、無理を言ってきてもこれに逆らわないというものであったが、西園寺がそういう考えのようであった。そのため第一次世界大戦の時、日英同盟の義理で日本は参戦したが、参戦はしても後で青島を返すことになり、また後には日英同盟を廃し、軍備を縮小し、九国会議があってシナ大陸に手を出せないようにするという、このような外交に堕してしまった。国際連盟にしても国際平和などと言いながら、実際にはドイツを生殺しにして第二次世界大戦を起こす原因となっており、それまでの平和は謀略戦であって、列国は虎視眈々として武力を強化し侵入しようとしていた。
国際関係を円満にし、平和でゆきたいという考えは良いのだが、政党および西園寺を中心とした重臣は事なかれ主義であった。これが事の起こる原因であった。
対満洲・中国外交政策がその後の日支事変のようになったのは、西園寺が政権を持っていた時の外交の失敗であると考えられる。上述のような外交姿勢によって、平和に事を処理していくくらいに考えていたのがわかっているから、張学良にも馬鹿にされた。また陸軍の有力者も政党に迎合し、西園寺に取り入って軍備を縮小したため、その反動として政党と西園寺一派がその後凋落したのはよかったとしても、これに代わったのが思慮の浅薄な者であったため、結局もつれてその後の事態となったのであった。
晩年は積極的に政治に口出しはせず、元老として内閣奏請の役目を負うことも、二・二六事件直後に広田弘毅内閣を推薦したのを最後とした。その後は内大臣が勅許を得て西園寺の意向をきいたが、それは内大臣の参考になるだけで、西園寺の意見がただちに、御下問に対する奉答になるわけではなかった。
昭和15年11月14日、西園寺は92歳の寿命を終わった。
関連タグ
ぬらりひょん・・・晩年の風貌がなんとなくそれ。