摂関家とは、清華家や大臣家の上、摂政・関白の地位を独占した最上級の公家を指す。全て藤原氏で、5つの家系があったので五摂家ともいう。ほかの公家の子弟が従五位下に叙任されるのに対して、摂関家の場合、従五位上または正五位下に叙任される。なお、ほかの公家は「五摂家」のいずれかの家礼(家来)として代々仕えるものが多く、これらを御門流といった。また、安土桃山時代に武家の豊臣秀吉・豊臣秀次が関白となるが、その後の豊臣家は滅亡し摂関家とならなかった。(しかし、秀吉は元関白・近衛前久の猶子となっており、形としては摂関家の出ということになっている)。
藤原氏の嫡流
藤原氏が北家・南家・式家・京家に分かれた後、藤原北家出身の藤原良房が臣下で最初の摂政となった。その養子の藤原基経は、摂政から史上初の関白となった。これ以後、基経の子孫のみが摂政・関白の地位を得て天皇家の外戚も兼ね、代々藤原氏の嫡流と藤氏長者の称号を引き継いだ。この家系を摂関家と呼ぶ。藤原道長の最盛期の後、院政や武家の台頭の中で大きな変化を迎える。
図 平安時代の藤原摂関家
藤原良房ーー藤原基経ーー・・・ーー藤原道長ーー・・・--藤原忠通
院政期以後、五摂家の成立
院政期に入ると、権力は治天の君たる上皇・法皇の手に移り、摂関家の地位は動揺する。こうしたなか、関白として保元・平治の乱を戦った藤原忠通の子供の代に、源平合戦の混乱の中で以下のように嫡流は分裂することになり、鎌倉時代にかけて後の五摂家へと別れていった。
- 近衛基実(藤原基実):忠通の四男で、兄たちが早世したので嫡男となる。関白となり、武家の棟梁平清盛の娘である平盛子を妻として権力を握るが24歳の若さで早世した。その子近衛基通は平家の没落や源氏の台頭といった激動を後白河法皇の忠実な側近として乗り越え、摂政・関白を度々務める。子孫は近衛家とその分家鷹司家が摂関家となった。
- 松殿基房(藤原基房):忠通の五男。基実の死後、若年の基通に代わって摂政となるが、清盛と対立して解任。雌伏を強いられる。武家の木曾義仲が平家を破って上洛すると、復権を目指して義仲と縁組した。かくして、子の松殿師家を摂政とするが、これが致命的な失敗となった。義仲は後白河法皇とも源頼朝とも対立して没落。松殿家は以後法皇とも鎌倉幕府とも関係が悪化して摂関家にはなれなかった。
- 九条兼実(藤原兼実):忠通の六男。兄弟随一の学識に定評があり、彼の日記『玉葉』は当時の記録として一級史料とされる。それゆえ伝統を重んじ、後白河法皇との仲は最悪であった。しかし源頼朝は平家に近い基通や義仲派の基房よりも兼実を信頼したようである。法皇と頼朝が対立して朝廷が窮地に陥る中で、兼実が摂政となった。子孫も朝廷と幕府の融和に貢献し、九条家とその分家の一条家、二条家が摂関家に数えられる。