概要
徳川家の当主が正二位内大臣兼右大将に叙任され征夷大将軍に任じられて、260余りの武家大名と主従関係を結び彼らを統率するという制度は、1600年代後半までに確立された。
その将軍の政府を「幕府」、臣従している大名家を「藩」、さらに両者が複合した権力の体制を「幕藩体制」と一般に呼んでいる。「幕府」及び「藩」の語は幕末期に広く使用され、現在も歴史用語として定着しているものの。江戸時代を通じて使用されていた訳ではない。それまでは将軍の政府は「公儀」「公辺(おおやけ)」などと漠然と呼ばれていた。
幕府の始期及び終期については諸説あるが征夷大将軍の任官時期に着目する場合には、
家康がはじめて将軍職に任じられた1603年3月24日(慶長8年2月12日)から、いわゆる王政復古の大号令によって15代将軍徳川慶喜の将軍職辞任が勅許され、併せて幕府の廃止が宣言された1868年1月3日(慶応3年12月9日)までとなる。終期には他にも1867年11月9日(慶応3年10月14日)に15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行った時、1868年5月3日(慶応4年/明治元年4月11日)の江戸開城とする説もある。
徳川将軍が実質的に日本を支配したこの260年あまりの期間を一般に「江戸時代」と呼ぶ。江戸幕府は、日本の歴史上平氏政権、鎌倉幕府、室町幕府、織田政権、豊臣政権に続く5番目にして最後の武家政権である。
政治体制
徳川将軍家を頂点とした中央集権国家ではあるが、けっして徳川氏だけによる独裁政権ではなく老中・若年寄をはじめとする幕閣によって協議され、決定された政策を実行する集団指導体制として機能した政権であった。
発足当初、幕府は厳しい年貢の取り立てやキリシタンの弾圧、大名の取り潰しを頻繁に行う武断的な政権でったが、寛永14年(1637年)、領主の圧政に耐えかねた農民が島原(長崎)、天草(熊本)で一揆が起こると、それにキリシタンや取り潰しであぶれた浪人が呼応、幕府は鎮圧に半年を要し、多くの死傷者を出すこととなった(島原の乱)。さらに慶安4年(1651年)、3代将軍・徳川家光死去の間隙を縫う形で軍学者・由井正雪ら浪人による討幕の謀議が発覚・鎮圧する事件が起こった(慶安の変)。
これらの事件を重く見た幕府は無理な年貢の取り立てをやめ、「寺請制度」を整備して戸籍と宗教を管理を行い、大名の取り潰しを極力避けるなど、次第に文治的な政権に移行していった。
法体系
元和元年(1615年)、2代将軍・徳川秀忠は武家を統括する「武家諸法度」、朝廷や公家を統括する「禁中並公家諸法度」、寺社仏閣を統括する「寺社諸法度」を発布した。
また一般庶民には新たな法令が定められるたび「御触書き」を記した高札が各地で立てられた。
外交政策
清帝国、朝鮮王朝、オランダとの交易を行うため長崎を開いたことが有名。3代将軍・家光は対馬の宗氏を介して豊臣秀吉による朝鮮出兵のため断交していた朝鮮王朝との国交の修復に成功、幕末まで良好な関係を保ちつづけた。
また、オランダを通じて欧米諸国の情報を入手、ペリーの来航も予期していたため幕末の外交に一定の役割を果たした。
石高制*
豊臣秀吉の行った検地をもとにした「石高制」を引き継ぐことになったが、幕府財政は米の収穫量を基本としていたため、8代将軍・徳川吉宗の時代になると農業技術の発達により米の収穫量が増えるとともに値崩れし、江戸時代後期には逆に凶作が続いたことにより収入が激減して幕府や各藩の財政難は慢性的なものとなった。その結果、吉宗は米の価格統制を行い、吉宗の死後、実権を握った老中・田沼意次は失脚するまで商人から課税を強化する政策に力を入れることとなった。また、財源に窮した藩は米の収穫量を担保にして借金を続け、中には数年先の収穫量まで担保にして雪だるま式に借金が増える例も少なくなかった。
また、石高制には盲点ともいえる欠点があった。それは行われた検地があくまで机上の計算であり、実態とかけ離れた例も少なからずあったことである。たとえば熊本藩は加藤清正が河川改修を、仙台藩は伊達政宗が開墾を行うことで石高以上の収穫が得ることができたが、逆に薩摩藩は土地が火山灰に覆われていることが原因で土地がやせており、西国雄藩の面目を保つため年貢の取り立てが他藩よりもさらに峻烈を極めたといわれている。(それゆえ薩摩藩は琉球を通じて中国大陸と密貿易を行っている)
貨幣経済と流通
江戸時代は、また、貨幣による流通経済飛躍的に発達したことでも知られる。
それまでの日本は「銭」は中国からの輸入に頼っていた部分が大きく、国内で鋳造されるものは皆無に等しく、輸入した「銭」の1/4の価値しかない質の悪いものが細々と作られるに過ぎなかった。(「私鋳銭」、または「悪銭」、「びた銭」ともいう)
しかし泰平になると五街道をはじめとする道路、太平洋、日本海、瀬戸内海を周遊する海路が整備され、それぞれに流通経済が発達することとなった。
そこで幕府は金貨を鋳造する「金座」、銀貨を鋳造する「銀座」、銅貨を鋳造する「銅座」を設置し、それが日本全国で流通することとなった。(とはいえ小判をはじめとする小判は主に江戸で、銀貨は主に大阪で流通するのだが・・)
また、それとは別に各藩は「藩札」というものを独自に発行していた。これは現代でいえば「国債」が借金であると同時に紙幣的価値をもつというものであり、仮に藩が「お取り潰し」にでもなれば直ちに紙くずになるものであった。
自治制度
基本的に幕府は各藩の統治に介入することはない。各藩は独自に法令を定め領地を治めることになるが、大名に後継者が見たらない場合、施政に不備がある場合には幕府からの介入をまねくことになり、悪くすれば取り潰されることもあった。
また、一年おきに領地と江戸を往復する参勤交代、幕命による土木事業のほかに、面目を保つための支出もあって各藩の財政は逼迫することとなり、各藩は財政再建のため倹約令を発したり新作物の開発するなどして工夫したが大抵はうまくいかず、財源確保のために借金を繰り返すことになった。
学問・学校
幕府が設立した「昌平黌」を頂点として各藩で藩校が作られた。しかしながら、これらの学校で教えられたのは儒教・論語を中心とした東洋の学問であり、西洋の学問が教えられたのは幕末に神戸に作られた「神戸海軍操練所」が最初で最後だった。
西洋の学問を教えたのは独学で洋学を学んだ佐久間象山、緒方洪庵らの私塾だった。彼らは自ら塾を経営して人材を育て、優秀なものが幕府や各藩に召し抱えられることとなった。
また、それ以外の塾の各地に散らばっていた。それらの塾も簡単なそろばん、読み書きを教える「寺子屋」から、国学や心学、東洋医学を教えるもの、「和算」の研究を行うものなど多岐にわたっていた。(ちなみに「和算」の研究は世界でも有数の高度なものであり、明治になってそれを見たヨーロッパの数学者は驚愕したという)
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公儀 こうぎ 江戸幕府のみならず、鎌倉、室町時代の幕府を呼ぶときの名称 例 公儀隠密
公辺 おおやけ 江戸幕府のみならず、鎌倉、室町時代の幕府を呼ぶときの名称