人物
大永2年(1522年)~天正19年(1591年)
今井宗久や津田宗及とともに茶の湯(後の茶道)の天下三宗匠と称せられた、戦国時代・安土桃山時代の茶人。
楽しみのために大勢が集まる書院の茶に対して、何も削るものがないところまで無駄を省いて、緊張感を作り出すというわび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、「茶聖」とも称せられた。
実家は堺(現在の大阪府堺市)の納屋衆(倉庫業)の田中家。本名は田中与四郎。屋号は「魚屋(ととや)」だが、利休がいた当時は魚屋ではない。「千」というのは、祖父の千阿弥(せんあみ)の名前から取ったという。
若い頃から茶の湯に親しみ、独自の作法を大成させていく。禅宗にも帰依し、法名「宗易」を号し、利休が用いた「一期一会(いちごいちえ)」(この日に集うことは一生に一度のことで、二度と同じ日は来ないという意味)という言葉や客に「一汁一菜」の食事(懐石料理)を出してもてなしたのも禅の教えからくるものである。
また、利休の設計した茶室は後述するように狭く、身に寸鉄を帯びることなく主(招待者)やほかの客と相対することで、この部屋の中では貧富の差や身分のちがいもないと考えられている。
また、利休は織田信長に茶頭として、本能寺の変後は豊臣秀吉に側近として仕えた。その重用ぶりは、弟の豊臣秀長を差し置いており、その秀長本人からも大友宗麟に、「公儀の話は私(秀長)に、内輪の話は利休にするように」と言われたほどである。
利休の茶の湯は、高価な名物茶器より創作された茶器(楽焼の茶碗など)を重視して、茶室も2~3畳の小型のものをよく使っていた。秀吉の絢爛豪華な趣味(例:組み立て式黄金の茶室)とは対比的に捉えられやすいが、どちらも既存の伝統を打破するという点では共通している。
内裏で茶の湯を行い、正親町天皇から「利休」号を与えられた(これより前から字(あざな)として持っていた「利休」を、改めて追認されたという説もある)など様々な活動をして、茶の湯の名人として評判高く、大名も含む大勢の弟子を持っていたが、利休の後ろ盾となっていた秀長の死後、天正19年(1591年)に秀吉の反感を買い、切腹を命ぜられた。その理由はわかっていない。
没後、しばらく千家は取り潰し状態だったが、息子の千道庵が堺の実家を、後妻の連れ子で娘婿でもある千少庵が京都の家を再興した。秀吉の茶頭は、町人ではなく大名である古田織部が継いでいる。
創作物における利休
花の慶次
漫画『花の慶次』の登場人物。太閤・秀吉に仕える茶人。慶次にも劣らぬ巨躯の持ち主であり、嘗ては武人として戦場に赴き、その凄惨な有様を嘆いていた(利休=武人と言う描写についてはフィクションであり、史実では武人として戦場に赴いた事は無い)。慶次曰く「あれは茶人というよりいくさ人」。
側近として秀吉に従っているが、同時に秀吉がたびたび見せる傲慢な言動に辟易もしている(秀吉本人も外見は取り繕うものの利休を嫌っている。然し後に切腹させた事を気に病んでいた)。
ラジオドラマ版『花の慶次』では掛川裕彦がcvを担当。
原作に当たる『一夢庵風流記』では直接登場することはなく、「堺追放の後、切腹した」「その後、利休像が一条戻橋で磔にされた」ということが短く語られるぐらいである(この利休像の前で一悶着起こしたことが、慶次の朝鮮行きに繋がる)。
なお『花の慶次』とは逆に慶次は利休の茶の湯を「あんな気むずかしい茶は大嫌いだ」と語っている(当人にとって茶の湯とは「うまい茶を飲むこと」であり、わびやさびと言ったものはそれに対して余計だと考えている為)。
へうげもの
漫画『へうげもの』の登場人物。深遠な精神性を持つ「茶聖」にして、凄まじい業を持った「茶鬼」でもある、稀代の数奇者。主人公・古田織部の茶の師匠であり大きな影響を与える。己の数奇に基づく理想を日本に実現すべく秀吉に謀反を持ちかけ暗躍し、明智光秀を追い込んだ。筆頭茶頭となって秀吉に仕え、政治と文化双方で手腕を発揮するが、秀吉との摩擦が増えて、ある事件を機に再び謀略を画策するも、野望を諦めることに接し、最期へ臨むこととなる。
本作では史実の背の高さがかなり強調されているが、現存している利休所有とされる甲冑から推定される史実の利休の身長は約180cmとなる。
戦国BASARA
CV:櫻井孝宏
戦国BASARA4皇から登場する新規武将の一人。
関連イラスト
「戦国BASARA」「へうげもの」関係が多い。……ネタ絵も意外とあるのは、人気と知名度のおかげだと思いたい。