概要
中国王朝の一つ、大清帝国の清朝末期である1900年におこった争乱である。
『北清事変(ほくしんじへん)』とも呼ばれ、他にも『義和団事件』『義和団事変』『北清事件』『清国事変』などといった名称があり、中国では戦争が起こった年の干支から『庚子事変(こうしじへん)』とも言われる。
1890年代にドイツ帝国の支配下にあった山東省で排外活動を行っていた秘密結社『義和団』を、清朝が支持して欧米列強に宣戦布告を宣言したことで発生し、暴徒化した義和団や腐敗した清朝による弾圧に、多くの外国人・中国人が巻き込まれた。
この時、北京における諸国公使館は母国に応援を要請し、各国から連合軍が派兵されたが、清朝と義和団の攻撃によって各公使館は完全に孤立してしまう。
中でも日本公使館区は激戦区であったが、籠城戦で指揮を執った柴五郎中佐の下、この地区では日本軍の活躍し、柴中佐も自ら抜刀して敵陣に切り込んでいくなど、勇猛さや優れた指揮官ぶりが他国からも大変大きな称賛を受けた。
また、弾圧を受けた中国人避難民を含む全籠城者三千数百名の避難民を手厚く保護し、食料分配や傷病者の看病などにも細かな配慮を怠らなかった。
騒乱は翌年には朝廷(李鴻章が全権)と諸国間で北京議定書が交わされ合意には至ったが、歳入の数倍(利息込では10倍強とも)にも及ぶ賠償の支払いは帝室への致命傷となるに値し、以後の東亜の動乱の歴史に於けるターニングポイントとなった。
余談
前述した、柴五郎中佐の指揮下で行われた日本公使館区の籠城戦に参加していた、ロンドン・タイムズの特派員ジョージ・アーネスト・モリソンは、事変後に柴中佐以下日本人の活躍を大々的に報じ、柴の指揮下にいたイギリス人義勇兵のバートラム・レノックス・シンプソンは彼に心服し、自身の日記に「日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれている。彼はいつの間にか混乱を秩序へとまとめていた」「彼の奴隷になってもいいと思う」とまで書き記した。
戦いの終結後、柴は明治天皇の前で北京籠城の経緯を報告する名誉を与えられ、イギリスのビクトリア女王をはじめ、各国政府から勲章を授与された。
この経緯から、『栄光ある孤立』を謳っていたイギリスの対日感情は好転し、日英同盟を結ぶきっかけになったといわれている。
この同盟の締結が、3年後の日露戦争で絶大な効力を発揮することとなり、日本を救った影の立役者として彼が挙げられることもある。
フィクションにおける影響
当時の複雑な社会的、政治的混乱などの背景もあり歴史的には未だ評価が定まっていない事件だが、既に近代化の始まっていた時代に拳法集団から興った秘密結社が、外国勢力を国家の為に打倒せんと立ち上がり、国家により弾圧されるに至った事から武侠小説などに与えた影響は多大な物が有る。
日本では事件そのものを題材とした創作に手塚治虫の一輝まんだら等がある。