概要
DPJ Government of Japan
この政権は2009年の衆院選から2012年の第46回衆議院議員総選挙の間に日本政府の中枢にあった民主党を中枢とする政権である。
【歴代政権2009~2012】
鳩山内閣(友愛内閣)
民主党が300議席以上を獲得するという衆院選圧勝により、民主党代表だった鳩山由紀夫が内閣を組閣し、民主党・国民新党・社民党の3党による連立政権(これは参議院の議席の関係である)が誕生。国家戦略室や事業仕分けなどの「政治主導」を印象づける政策を推進した。
ところが、民主党幹事長であった小沢一郎の党運営をめぐり親小沢・反小沢で民主党内に亀裂が生まれ党内は混乱する。
さらに鳩山総理の個人の公約であった普天間基地移設問題では、鳩山の発言により事態は迷走、結局辺野古への移転を示唆すると沖縄県民を落胆させた。またこの件では県外移設方針を掲げる社民党は政権を離脱。
これらの件により、小沢一郎に幹事長職をを辞任させることを条件として鳩山は総理辞任を宣言。わずか8ヶ月で鳩山政権は崩壊した。
菅内閣( 奇兵隊内閣 )
鳩山由紀夫の総理辞職後、反小沢を掲げた菅直人が党代表に選出され総理大臣となったが、この政権も問題が山積した。
消費税の増税を検討し、参議院の議席を落とし、ねじれ状態になったりした。
就任から三ヶ月後、尖閣諸島中国漁船衝突事件が発生、この事件の対応(この件は内閣官房長官であった仙谷由人を中心として「事件を隠蔽」しようとしたものの、現場からのリークで発覚した)「弱腰」として批判された。
また、就任半年目で東日本大震災に見舞われ、同時に生じた福島第一原子力発電所のメルトダウン等の後始末に追われる事になった(ただし一部の意見ではこれは政権の延命になったとの評価が存在する)。
外交面では鳩山政権で亀裂が生まれたアメリカ当局との関係を再構築し、従来の自民党寄り路線に回帰。
また第2次安倍内閣で成立したTPP交渉参加、日本版NSC構想などを打ち出すものの、大連立の検討など迷走し、マニフェストでは否定していた消費税増税に含みを持たせたまま、菅政権は1年5ヵ月で終結した。
野田内閣( ノーサイド決断路線内閣 )
菅直人の辞職後、党代表に選出された野田佳彦は民主党内の混乱を切り抜けるべく『ノーサイド決断路線』を宣言し、その後決断増税路線へ舵を切った。
しかし衆院選のマニフェストには「四年間は民主党政権では税金は上げない」と明記しており、これは明らかに反する行動であった。
そのため鳩山由紀夫陣営や小沢一郎陣営の反発を生み、小沢一郎元幹事長と陣営の議員の一部は民主党を離党。7月11日に小沢一郎を代表として政党国民の生活が第一を結成、11月に日本未来の党となった。さらに日本維新の会などの第三局などに移籍する動きが相次いだ。
2012年11月14日の党首討論において野党であった自民党安倍晋三総裁と野田佳彦総理大臣( 兼民主党代表 )が激論し野田総理は12月16日に解散をすると明言した。
その後同日に行われた衆議院選挙において政権担当時の数々の失策と多数の離反者が出た事で野田民主党は安倍自民党・公明党に敗北(ちなみに民主党から離党した議員が所属した政党、例を挙げれば日本未来の党なども壊滅的敗北を喫した)。
しかも、現職閣僚19名のうち引退者1名を除く14名の衆院議員が5人しか当選せず、7名が落選(基本的にこれらの人物は基本的に「選挙に弱い」人たちであったが、中には小平忠正や田中眞紀子などの名もある)、1名は離党し当選、1名は連立を組む国民新党より立候補し落選という前代未聞の大敗北であった。ここに民主党政権はわずか3年あまりで終了し自由民主党および公明党の連立政権に再び政権を明け渡し、野田総理は辞任した。1年6ヶ月であり、他の政権よりも長かったといえる。
以後
日本政府の中枢としては安倍晋三等を参照、民主党に関しては民主党(日本)を参照されたし。
【参考文献】
・イラスト
( デモクラット(初期)( G.J.C.オクタビヤンス ) )
( 鳩山「わかりにくい修正でまた投稿して前回より不評だったら嫌だな」( noo157 ) )
( フジ放送事故( ほっさん ) )
( 野田 佳彦 (いいずか ゆうた ) )