高松琴平電気鉄道
たかまつことひらでんきてつどう
概要
香川県高松市を中心とした3路線(琴平線・志度線・長尾線)を運営する私鉄。
ターミナル駅は瓦町駅。終着駅は琴電琴平駅(琴平線)琴電志度駅および瓦町駅(志度線)長尾駅(長尾線)高松築港駅(琴平線と長尾線の共用)である。車両工場は仏生山工場(メイン)と今橋工場(サブ)の2ヶ所。
かつては大手私鉄や各地の中小私鉄からの種々の譲渡車両が集まり、「動く電車の博物館」とも称されたが、現在は車両の更新が進んでいる(譲渡車両であることは同じであるが)。
更新後の運用車両は京浜急行電鉄、名古屋市営地下鉄、京王電鉄からの譲渡車両がメインとなっており、以降の車両も同様の運用が見込まれていることから、両社の鉄道ファンからは変わらず注目を浴びやすい。
線路幅が標準軌であるところがほかの中小私鉄と異なる。特に前身3社のひとつであり実質上の存続会社となった琴平電鉄が「讃岐の阪急」を目指した(そして自称した挙句、実際に地元民に称された)ために標準軌採用や(当時の)都市圏規格級高電圧設備設置などイロイロとはっちゃけていた。
その名残は確実に現在のことでんにも継承されており、その様は明らかに香川県の誇る変態企業の一角、と言われる事もある(が、そのはっちゃけぶりによる資産が現在のことでんを救っている部分もある)
エピソード
- 現有3線の他に「高松市内線」と「塩江線」という2路線を持っていた。塩江線は琴平電鉄時代に有した路線であるが戦時中に台風被害に遭った後、財政難から再建が出来なかった上で軍部より不要不急線と見なされて鉄資材供出のため廃止に追いやられる。高松市内線はコトデン運営線唯一の路面電車だったが1945年7月4日に被った高松空襲の被害により壊滅し、戦後復旧都市計画の中で再建が望まれながらも計画(予算)上の様々な都合で廃線となった。
- 上述の通り「塩江線」を持っていたが、これは高松内陸にある温泉地であった塩江温泉と高松市内をつなぐ路線として設立されたものである。そして「讃岐の阪急」を目指していた琴平電鉄は塩江温泉の各旅館と提携して塩江温泉少女歌劇団を実際に設立させ地元旅館との合弁組織としてこれを所有していた。だが戦時中の娯楽統制とともに廃止となる。
- 塩江線の跡地の一部(安原駅から岩崎駅付近まで)は香東川自転車道(香川県道269号塩江香川高松自転車道線)の一部になっている。仏生山駅から伽羅土駅にかけても路線の一部が生活道路として残り、地域の人々から「ガソリン道」と呼ばれている。(塩江線の車両がガソリン気動車であったため)
- 高松市内線の跡地は「香川県道173号高松停車場栗林公園線」(県庁前通り)として、ほぼ現存している。(ただし瀬戸大橋通りから番町1丁目交差点までの区間は区画整理のために廃線跡そのものが消えている)
- 戦後すぐの輸送強化の目的で、高松琴平電気鉄道11000形電車を導入した事がある。この電車、元は国鉄のワフ25000形貨車を琴平の町工場で魔改造して客車化させたもの。この客車の存在を知った国は大慌てで運用するなら65km/hを超えるなとコトデンに通達している。乗り心地に関してはお察しください。ちなみに3年で廃車となった……が、1991年まで倉庫として使われた上、その倉庫も取り壊したのちに仏生山工場の業務用無蓋貨車の材料としてリサイクルされた。
歴史
1909年に高松電気軌道(現在の長尾線)設立。
1910年に東讃電気軌道(現在の志度線)設立。ことでん公式における会社設立年。
1920年に琴平電鉄(現在の琴平線)設立。
1943年に上記3社が対等合併し高松琴平電気鉄道となる。
(琴平線と長尾線が会社名に名を残す代わりに設立年を志度線が取る形となった)
1997年に旧そごうと提携しコトデンそごうを設立。
2000年に旧そごうグループが破綻して、そのアオリをもろに引っ被る事になった。
2001年12月に民事再生法適用を申請後、経営再建中。
2002年、イルカの「ことちゃん」をマスコットキャラクターに据える。
2005年、四国地方初の交通系ICカードとしてIruCaの供用を開始。
2011年、前身のひとつである東讃電気軌道の今橋~志度(現琴電志度)間開業以来100周年を迎える。