第一次世界大戦の時代において、英国船の護衛任務において多大な成果をあげ活躍した、大日本帝国海軍の『第2特務艦隊』に対する渾名であり、この時に犠牲になった日本海軍の戦没者たちの御霊を祭る慰霊碑が、マルタ共和国のイギリス軍墓地に建てられている。
大正6年(1917年)1月において、日本は同盟国だったイギリスの強い要請に基づき、ドイツ・オーストリア軍の潜水艦による攻撃から、連合国(協商国)の輸送船を守る通商保護任務のために艦隊を派遣した。
その中で地中海に派遣されたのが、佐藤皐蔵少将が率いる第2特務艦隊である。
巡洋艦『明石』を旗艦とし、松下芳蔵中佐が司令を務める第10駆逐艦隊『梅』『楠』『桂』『楓』と、横地錠二中佐を司令とする第11駆逐艦隊『松』『榊』『杉』『柏』の駆逐艦8隻の、計9隻で編成された。
第2特務艦隊の任務は、マルタ島を根拠地としてイギリス海軍および連合国(協商国)の海軍と連携を取りながら、地中海におけるオーストリア=ハンガリー帝国およびドイツ帝国の潜水艦『Uボート』の攻撃から船舶を護り、通商保護に努めると共に被害を受けた船舶の乗員の救助を行うというものだった。
当時の地中海には約40隻ものドイツ軍とオーストリア軍の潜水艦が潜んでいたとみられ、連合国(協商国)側の受けていた被害は甚大なものであり、大正5年(1916年)下半期だけでイタリア船136隻、イギリス船96隻、フランス船24隻の計256隻もの船舶が攻撃を受けて犠牲になっており、奇しくも日本が第2特務艦隊を派遣した大正6年2月になって、ドイツは軍・民問わず敵国の船舶を無差別に攻撃する「無制限潜水艦戦」を宣言し、被害は更に増加していた。
第2特務艦隊は、南フランスのマルセイユで陸兵と武器を積載し、アレキサンドリアに届ける輸送船『トランシルバニア号』の護衛し、無事にマルセイユで約3000人の陸兵と武器が積み込まれ出港した。
しかし、イタリアのサナボ沖で敵潜水艦は護衛していた駆逐艦の松と榊の対潜警戒網を掻い潜って忍び寄り、 魚雷をトランシルバニア号の左舷後方に命中させた。
だが、この時に松と榊はすぐトランシルバニア号の元に駆けつけて救助活動を開始、榊は敵潜水艦を探索し、松はトランシルバニア号に横付けになり乗員の救助にあたった。
そうしてトランシルバニア号の甲板にいた兵士たち約半数が松の甲板に乗り移ったが、そこで敵潜水艦の別の魚雷がトランシルバニア号に命中、この攻撃で松も艦首部の一区画が浸水し、見張員と砲員2名が負傷した。
800名を超える乗員を救助した松はトランシルバニア号を離れ、そのまま敵潜水艦に攻撃を開始、そして松と交代で探索と攻撃を行っていた榊が残された乗員の救助を行った。
救助は迅速に行われ、驚くことに小さな駆逐艦の榊に僅か5分で1000人もの乗員が救出された。
松と榊はその後も敵潜水艦と戦いながら献身的な救助活動を続け、駆けつけたイタリア海軍の駆逐艦2隻とパトロール船2隻の協力も得て、トランシルバニア号の乗員3266人(陸兵2964人、看護部66人、船員236人)のうち、約3000人を救助した。
トランシルバニア号はその後の午前11時頃に沈没してしまったが、敵の攻撃に晒されながら沈没する艦船から、その乗員の殆どが救出されたという海難救助の例は他になく、しかも松と榊の乗員たちは救助したトランシルバニア号の乗員たちを手厚く看護し、世界の人々に大きな感動を与え、日本海軍による世界海事史上に輝く一大事とされている。