生涯
永禄2年(1559年)に近江(滋賀県)で生まれたと言われる。
天正始めに豊臣秀吉の小姓となり、賤ヶ岳の戦いや九州攻めで活躍。
天正13年(1585年)に刑部少輔(刑事訴訟に関する官職)となり、『大谷刑部』とも称された。
天正17年(1589年)、越前敦賀城主となり、城下の街造りをすすめた。
秀吉死後、石田三成と徳川家康との対立が厳しくなり、吉継は家康に接近し、政権内の混乱収拾に当たった。
討伐軍に合流する前に石田邸を訪れ、双方を仲裁しようとしたが、逆に三成から挙兵の計画を持ちかけらた。これに対し吉継は決起は無謀だと反対したが、親友の頼みを受け、敗戦覚悟で協力。総大将に毛利輝元の擁立を提案し、西軍首脳として挙兵に加わった。
関ヶ原の戦いでは輿に乗って参戦し、東軍の藤堂高虎と戦ったが、裏切った小早川秀秋らの攻撃を受け自軍は壊滅し、自害した。享年42歳。
その首級は側近の五助こと湯浅隆貞の懸命の工作により東軍に渡る事は無く、関ヶ原には二人の墓が並んで祀られている。
*湯浅隆貞は藤堂高刑(藤堂高虎の甥)に討ち取られたが、その折に吉継は自身の崩れた顔を恥じていたので、自分の首を差し出す代わりに吉継の首を埋めた場所は誰にも口外しないで欲しいと隆貞は頼み高刑も承諾した。
その後、高刑は吉継側近の隆貞を討ち取ったなら吉継の首の在り処も知っているだろう、と家康に詰問されたが、高刑は知っているが隆貞と約束したので家康の願いでも、如何なる罰を受けようとも答える訳にはいかないと返答。感心した家康から罰を受けるどころか逆に褒美を貰ったという話がある。
人物
いつ頃からかわからないが、業病(ハンセン病)を患い、顔を頭巾で隠していたといわれ、失明していたともされる。
※現在のハンセン病はごく軽度のうちに服薬で完治する病気であるが、昔は治療法がなかったため、顔や体の部分が変形に至るまで悪化する例が珍しくなかった。
症状の見た目から偏見を持たれやすく「業病」として、悪いことの報いであるような扱いを受けることも珍しくなかった。
ただし、実はこれについては一次資料では確定しておらず、梅毒説もある。頭巾についても江戸中期以降の逸話に登場するものであり、実際にしていたかどうかは不明。大河ドラマ・真田丸でも、ハンセン病説を取っておらず、頭巾もしていない。
目を病んでいたのは事実。
石田三成の親友でもあるが、ある茶会に吉継も列席し、茶碗を回し飲みしていたが、茶碗を吉継が口をつけた(または茶の中に膿が落ちた)後、誰もその茶碗を飲むことを嫌がった。
しかし、同席していた三成は平然とその茶碗を飲み干したという。その後も三成は吉継に気軽に話しかけ、それ以来二人は親友となったという。
※上記エピソードは秀吉の説もある。
彼の子供は、
男児:大谷吉治(吉勝)・木下頼継・大谷泰重
となっている。
上記の人物をモデルにしたキャラクター
- 戦国BASARAの登場人物。詳しくは→大谷吉継(戦国BASARA)
- 采配のゆくえの登場人物。詳しくは→大谷吉継(采配のゆくえ)
- 戦国無双の登場人物。詳しくは→大谷吉継(戦国無双)
- アニメ戦国コレクションの登場人物。詳しくは→四ツ葉・大谷吉継
- 滋賀県のご当地キャラクター。詳しくは→おおたににゃんぶ
関連タグ
片岡愛之助(2016年NHK・大河ドラマ『真田丸』にて吉継役を担当)