概要
クラッシック音楽を中心に、様々な音楽を取り上げる。
毎週日曜朝9時からテレビ朝日系列局(ただしアレ除く)および福井テレビ(フジテレビ系列、アレの代替の意味合いもある)で放送中の音楽番組。北日本放送(日本テレビ系列)や山陰放送や宮崎放送やテレビ高知(いずれもTBSテレビ系列)でも土曜朝に放送されている。さらには朝日新聞系の衛星テレビ局のBS朝日でも放送されている。
なお、テレビ朝日系列では、2017年10月以降放送日時が変更になる。基本的には土曜朝10時-10時30分だが、前倒しする地域がほとんどである一方、日曜の夜中に回してしまうところもあるそうな。
1966年4月にスタートした長寿番組。ただし、番組そのものは「ヤング・ポップス・コンサート」のタイトルで、1964年8月から1966年3月まで、東京12チャンネル(現・テレビ東京)、北海道放送、毎日放送、山口放送などで放送されていた。東京12チャンネルが経営難に陥り、放送続行が難しくなったが故にNET(現在のテレビ朝日)に移行している。また、1968年9月に一度打ち切られたが、1969年7月に再開されている(なお、打ち切りから再開までの間は、「黛敏郎の間奏曲」なる、似たようなコンセプトの番組を放送していた。ちなみに、この番組の再開とほぼ同じ時期である1969年7月にスタートし、かつこの番組に次いでテレビ朝日の長寿番組である「ワールドプロレスリング」もまた、中断していた時期がある)。日曜朝の番組、のイメージが強いが、東京12チャンネル時代は土曜のゴールデンタイムに組まれていた。NETに移ってからも、金曜の深夜や土曜深夜に回されたこともあった。
石油元売り会社の出光興産の一社スポンサー番組。
テレビ朝日系列フルネット24局のエリアの話になるが、プリキュアを見終わった後にそのまま視聴する人も結構いるはず。
司会
- 黛敏郎(作曲家、「ヤング・ポップス・コンサート」開始当初 - 1997年5月)
- 永六輔(作詞者・エッセイスト、1997年5月 - 同年9月、黛死去に伴い就任。公式には司会者代行扱い)
- 武田鉄矢(シンガーソングライター、1997年10月 - 2000年3月、タイトルは「新 題名のない音楽会」)
- 羽田健太郎(ピアニスト・作曲家、2000年3月 - 2007年6月、タイトルは「題名のない音楽会21」)
- 久保田直子(テレビ朝日アナウンサー、2007年6月 - 2008年3月、羽田死去に伴い就任。番組史上初かつ2017年春の改編時点で唯一の女性司会だが、公式にはサブ司会者扱い。タイトルは引き続き「題名のない音楽会21」)
- 佐渡裕(指揮者、2008年4月 - 2015年9月、タイトルは「題名のない音楽会」に戻る。さらに英文表記”Untitled Concert”を併記)
- 五嶋龍(バイオリニスト、2015年10月 - 2017年3月)
- 石丸幹二(ミュージカル俳優、2017年4月 - )
司会者に関して補則
- 永と久保田は直接音楽との関わり合いのない職業に就いているが、これは新しい司会が決まるまでのピンチヒッター的な色合いがあったため。このため、テレビ朝日公式サイトでは両者とも正規の司会者にはカウントしておらず、永こそ「司会代行」として紹介している一方、久保田に関しては全く取り上げていない。なお久保田時代は「メイン司会」なるものを別に週替わりで起用しており、後に司会に就任した佐渡も実はそのひとりであった。
- 「ヤング・ポップス・コンサート」時代には歌手の九重佑三子がアシスタントを務めたほか、永以降アシスタントが付いている。原則としてテレビ朝日の女性アナウンサーが務めるが、武田後期にアシスタントを務めた加羽沢美濃はピアニストである。また、久保田は元々は羽田のアシスタントであり、佐渡に交代した後2010年3月まで再びアシスタントを務めた。
- 黛時代には、作曲家・指揮者の石丸寛(黛の友人でもあった。ちなみに永も同様)や小泉文夫(民族音楽研究者)が司会代行を務めた事がある。黛のスケジュールなどの都合による。
番組の傾向など
はっきり言って、五嶋龍から石丸幹二に司会者が変わるまでは、司会者によってコロコロ変わった。その変遷と背景などを述べる。
黛時代
黛がクラッシック音楽の世界の人間である一方、映画音楽やテレビドラマの音楽も手掛け、しかも日本テレビでニュースキャスターまで務めたこともあってか、幅広いジャンルの人々が遊びに来ることがあった。こちらも参考までに。
また、黛がかなりあっち方面の人だったためか、あっちの方向のネタも何度かやらかしたことがある。特に番組で自作の「憲法はなぜ改正されなければならないか」と言う曲を披露しようとしてテレビ朝日と大喧嘩、強引に収録した結果、テレビ朝日によって握りつぶされた、ということがあった。
さらに、いわゆる現代音楽を積極的に取り上げた一方(そもそも黛自身現代音楽で活躍した人である)、J-POPをフルボッコでこき下ろしまくったため、デーモン閣下の怒りを買い、番組に殴り込まれてしまったことがある。
1974年-1976年、1978年、そして1980年-1995年の最終放送日には、紅白歌合戦をいじり倒す企画をやらかしていた。
永時代
先述通り、ピンチヒッター的色合いがあったため、黛時代と大差ない。
武田時代
武田がクラッシック音楽とは縁遠く、J-POPに近い人だったため、どうしても(フォークソングを中心に)J-POPを多く取り上げざるを得なくなった結果、多くの視聴者からヒンシュクを買うことになってしまう。アシスタントをテレビ朝日の局アナからクラッシック畑のピアニストの加羽沢に交代させたのは、クラッシック音楽に対処させるためではあったが、結局武田は2年半でクビになった。加羽沢もその道連れで降板を余儀なくされる。
羽田時代
桐朋学園大学でクラッシックピアノを学びながらも、生活のため一度はクラッシック音楽を棄て、軽音楽の道に逝かざるをえなくなった、と言う過去故に、両方バランスよく取り上げる、と言う方針をとったものの、それでも「J-POP取り上げすぎだ」と罵倒されることも少なくなかった。
また、羽田自身が、わざわざアソコで「東京音頭」を演奏したほどのあの球団○チガイだったため、番組で「東京音頭」が演奏された際、ライトグリーンの傘を差してステージ上を飛び跳ねまくり、観衆をドン引かせ、視聴者から大ヒンシュクを買ったことがある。
久保田時代
こちらもピンチヒッター的色合いが強かったため、先述の通り、「メイン司会」と言う名のアシスタントと進行せざるをえなかった。
内容的には羽田時代と大差ない。
佐渡時代
佐渡の本職が指揮者であるが故に、指揮者を意識した構成がなされていた(右下がめくれた楽譜をモチーフにした番組ロゴ、「新しいページをめくりませう!」と絶叫するつかみの挨拶)。
また、視聴者巻き添え企画(「あんたも指揮者・振ってみまSHOW」、「生オケバックに歌ってみまSHOW」)、青島広志がコスプレでクラッシックの作曲家をシャレのめす、宮川彬良が些細なことを「大発見だー!」とわめく、高嶋ちさ子が因縁を付けまくる、と言った企画などをやらかした。佐渡曰く、「レナード・バーンスタイン先生とニューヨークフィルによる『ヤング・ピープルズ・コンサート』をベースにしたものなんです」(ちなみに佐渡はバーンスタインの弟子。また、佐渡は「ヤング・ピープルズ・コンサート」の日本語での公演権を持つ)だそうだが・・・・・・それ何て「オーケストラがやってきた」?(ちなみに「オーケストラがやって来た」も「ヤング・ピープルズ・コンサート」を元にしている)
自らが深く関わっているシエナ・ウインド・オーケストラや兵庫芸術文化センター管弦楽団をやたら出演させていた。しかもこの2団体、佐渡の降板後はほとんど出演していない。また、妙に吹奏楽をネタにしていた。
佐渡が海外でも精力的に活動をしているが故に、やたら海外ロケも行われていた。そしてその海外での活動が、この番組の司会者としての佐渡の命取りとなった。
五嶋・石丸時代
サブタイトルは原則「××の(な)音楽会」に統一、番組の締めにありがたいお言葉を取り上げる。
五嶋時代には公開収録のほかにも、スタジオ収録も結構頻繁に行われた。
実は五嶋はアメリカ人であり(本名リュー・ブライアン・ゴトー。また、それ故に番組史上初の外国人司会者でもある)、なおかつ活動・生活の拠点を母国・アメリカに置いている。ゆえに番組収録のためにわざわざ太平洋を越えなければならなかった(スタジオ収録をやたら行ったのもそのため)。故に司会就任からわずか1年半でクビになった。
そういったいきさつからか、石丸に変わってからも内容はあまり変わっていない。