概要
悪路王に関する最古の記述とされるのは鎌倉時代に成立した歴史書『吾妻鏡』文治5年(1189年)9月28日の条である。
それによると、平泉で藤原泰衡を討伐した源頼朝が鎌倉へと帰る途中、達谷窟を通ったときに「田村麻呂や利仁等の将軍が夷を征する時、賊主悪路王並びに赤頭等が塞を構えた岩屋である」と案内人から教わったという。
この『吾妻鏡』で記述された話が、のちに東北各地の本地譚(地方伝説)に取り入れられ、坂上田村麻呂伝説が形成されたものと考えられる。
坂上田村麻呂と藤原利仁が悪路王や赤頭らを討伐したという話であるが、後世の伝説などに取り入れられる過程で父子関係においたり、「田村麻呂利仁」という一人の人物として融合されたのも『吾妻鏡』の記述が大元とみられる。
よく誤解されるが陸奥国(現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県)の蝦夷(エミシ)の賊主であり、蝦夷地(現在の北海道)やアイヌとは無関係である。
物語
『田村の草子』では、二代目の俊仁将軍の妻である照日御前を拐ったのが陸奥国高山の悪路王とされ、毘沙門天の加護を得て悪路王の本拠に侵入した俊仁に待ち伏せの上で討たれた。
俊仁は悪路王討伐の途中に立ち寄った陸奧国初瀨郡田村郷の賤女悪玉姫に一夜の情けをかけ、悪玉姫が産んだ子供が後に鈴鹿御前と婚姻して鈴鹿山の大嶽丸を討伐する三代目の坂上俊宗将軍となる。
名前の由来
定説ではないが『鳴子町史』では、延暦八年(797年)に紀古佐美を征東大使に任じ、兵五万余をもって征伐に向かわせて衣川まで進んだが、食料不足と寒気に悩まされて、結果的にアテルイに破られ、数千人の戦死者をだして惨敗した。このことは『日本後記』に示されているが、そこには当時の道が如何に「悪路」だったかが明記されており、アテルイが悪路王と呼ばれた理由ともなったのではとしている。
アテルイとの関係
賛否両論あるが、民俗学では坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイと同一視する説もある。
民俗学者の伊能嘉矩によれば鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』が悪路王に関する最古の記述とされ、大高丸→悪事の高丸→悪路王と通じることから本来はひとつの対象を指したとしている。
しかし『吾妻鏡』は編年体で書かれた将軍年代記であることから、悪路王の記述には鎌倉幕府による政治的意図があった可能性も否定できない。
また、アテルイに関する記述は平安時代成立の『続日本記』と『日本記略』の2つのみであり、そこではアテルイを悪路王や賊、鬼とはしていない。
大高丸(大武丸)は江戸時代に盛岡藩の南部氏が『田村三代記』などから創出して岩手山の由緒に取り入れられたと考えられている。
そのため大高丸と悪路王は伝説化のルーツが異なるとみられる。
以上のようにアテルイと悪路王は「史実と、その史実と同時期を対象にした伝説」という関係である。
現代では悪路王とアテルイを同一視する説が先行しているが、歴史学では悪路王はあくまで伝説にすぎず、そのまま史実としては考えられていない。アテルイの名誉のためにも歴史上の人物としてのアテルイと伝説上の人物としての悪路王は別けて考えるのがいい。