来歴
1943年(昭和18年)生まれ。本名は笠井光男(かさい・みつお)
1966年(昭和41年)より日本テレビの長寿番組『笑点』に第1回から出演(開始当時はまだ二つ目だった)。
途中1969年より降板していたが、1972年に復帰。以後、2004年まで32年間に渡り番組に出演していた。
自身の出身地である千谷沢村を「チャーザー村」と呼びものすごいド田舎のように誇張するネタが定番の1つであった。なお、このネタに関してはジャンプ放送局に彼の親戚を名乗る投稿者が「本当なの?と言われて困っている」という投稿を寄せたことがある。
大喜利では「肥溜めに落ちた」に代表される下ネタを多く発言する一方で、「ニースの別荘で詩集を紐解いているときに幸せを感じる」などの洒落た発言や、社会風刺や反戦の発言も目立っていた。
また、山田隆夫の座布団運び卒業などの所謂「山田君罵倒ネタ」を答えにした後に、山田がこん平を突き落として座布団をすべて持っていくのもよく見られた。
最も、「山田君罵倒ネタ」は三遊亭楽太郎(現・6代目三遊亭円楽)や故・桂歌丸、そして自身の後任である林家たい平もやっており、三人連続(こん平→楽太郎→歌丸の順)でネタをやり三人とも山田に突き落とされて座布団を全て没収されてたりする。特に歌丸は「山田君に失礼。仇取るから」と言っておきながら罵倒していた。
それから余り目立たなかったが、楽太郎や歌丸を罵倒する答えをする事もそれなりに有った。
また楽太郎が歌丸を罵倒すると、間良く合いの手を入れ、さらにツッコミを入れていた。これが二人の罵倒合戦を更に面白くもしていたのも事実である。
1985年8月12日、笑点の運命を決する一言を発する。
この日、他のメンバー(5代目圓楽、古今亭朝次(現・7代目桂才賀)、三遊亭小遊三、林家木久蔵(現・木久扇)、三遊亭楽太郎(現・6代目三遊亭円楽)、桂歌丸、山田隆夫)、及び一部の番組スタッフとともに、羽田空港から伊丹経由で徳島入りする事になっていた。ところが、予約した便が悪天候のため離陸が遅れていた。そこでダイヤ通り離陸予定の後続の便に振り替えようという話が出たのだが、こん平は、
「予定通りの飛行機で行こうよ」
と言い、メンバーやスタッフらも同意して予約した便に搭乗した。
……この時振り替えようとしていた便が、あの日航123便であった。こん平の一言がなかったら、最悪笑点の歴史が終わっていたかも知れないのである。
2004年に多発性硬化症という難病を患い、『笑点』を休演。暫くは弟子の林家たい平が代役で出演していたが、2006年に復帰のメドがたたないことから、五代目三遊亭圓楽の勇退に合わせてたい平が正式にレギュラーとなった(現在も降板ではなく休演中という事になっている)。
現在も療養中で、糖尿病の悪化により壊死してしまい、左足の指を切断。2014年以降わずかずつではあるがTV出演も行っている。
2015年には24時間テレビ〜愛は地球を救うで11年ぶりに笑点の席に座り、メンバーや観客とともに持ちネタである「チャラーン!!」を披露。2020年の高座復帰を目標にリハビリ継続を宣言した。
2016年の同番組では、チャリティーマラソンに挑戦するたい平に触発され、自力歩行と文字を書くリハビリを受けていたことが特集され、当日は愛弟子に直筆のメッセージを添えたタオルを手渡した。
2018年の桂歌丸逝去により、『笑点』第一回に出演した回答者としては存命する最後の一人となった。
趣味は卓球で、三遊亭小遊三と対決したこともある(こん平が新潟出身で、小遊三が山梨出身であることから、川中島の戦いを模した卓球対決となった)。
師・林家三平の急逝に伴う“林家三平門下・離散の危機”に尽力した人物でもあり、移籍を決意した弟子を除いて師の門下であった弟弟子たちを自分の弟子として繋ぎ止め、若手弟子の多くを育て上げた苦労人で三平門下の功労者でもある。
2020年12月17日に誤嚥性肺炎のため死去。
笑点での持ちネタ
- チャラーン - 大喜利の各メンバー自己紹介の時、「こん平でーす!」の前ぐらいに発される掛け声。「ちゃんらーん」などとも表記されることがある。後々になると、「1、2、3」とタイミングを合わせるための前置きも付けて、客席ともども行うのが恒例になった。
- 若干の余裕 - 上と同様、大喜利自己紹介時の台詞。地方収録の際には、「新潟で育ったこん平が、久方ぶりに故郷へ帰ってまいりました」と現地の諸々を褒めた後で、翌週に「第二の故郷というのはありがたいもので、友人知人が楽屋に手に持ちきれないほどのお土産を持ってきてくれました。この場を借りて厚く御礼を申し上げます。なお、客席の皆様にお知らせがあります。わたくしの鞄には、まだ若干の余裕がございます」と続けるのが常であった。
関連タグ
林家三平・・・師匠の初代、弟子の二代目がいる。