概要
1908年より1988年まで青森駅(青森県青森市)と函館駅(北海道函館市)の間を津軽海峡を通って運行されていた国鉄・JR北海道の鉄道連絡船。貨車の航送も行っていた。
1925年からは車両を直接車載する貨車航送を開始した。
1945年7月14日、津軽海峡及び北海道はのべ3000機以上の米軍機の一斉攻撃を受ける。特に青函連絡船は全連絡船12隻のうち10隻が沈没(440人の船員が死亡)、2隻が重大な損傷を受けて、青函航路は麻痺状態になった。
また、1954年9月26日には洞爺丸台風に伴う暴風雨が原因で、航行中の洞爺丸が函館郊外の七重浜に座礁し転覆、死者・行方不明1,761名を出す大惨事となった。他に僚船4隻が沈没した。
高度経済成長期の到来とともに旅客・貨物運送が激増し青函連絡船は絶頂期を迎えるが、その後は旅客機の普及により旅客需要が激減。
青函トンネルを含む津軽海峡線の開業に伴い廃止された。ただし、この年の7月から9月までに青森と函館で行われた博覧会(青函博)の観客輸送のため一日2往復復活運行されたため、正式に廃止されたのは1988年の9月19日であった。
主な船型
余談
青函連絡船の名物は塩ラーメンとカレーであり、宇高連絡船の連絡船うどんと人気を二分した。塩ラーメンは2008年を以てその流れをくむ店が総て閉店してしまった。一方カレーは現在でも休日のみ八甲田丸内レストランで食べられる他、連絡船のシェフに弟子入りした女性が始めた長万部食堂の流れをくむ「デリ57」という店が存在する。(参照)
青函連絡船を操船する乗組員は乗客を乗せて船舶を操縦できる免許(自動車で言う二種免許)を当然のことながら所持しており、これを活用して飯田線が土砂崩れで長期間不通となった際、佐久間ダムを管理する電源開発が所有する巡視艇を青函連絡船の乗組員に操船させて鉄道の代行輸送とした事例がある。