青函連絡船
せいかんれんらくせん
概要
1908年より1988年まで青森駅(青森県青森市)と函館駅(北海道函館市)の間を津軽海峡を横断する形で運航されていた国鉄・JR北海道の鉄道連絡船。航空路線が整備される前までは本州と北海道を結ぶ貨客輸送の基幹ルートとして知られていた。
鉄道の営業キロ上としての換算距離は113.0km、航路としての航海距離は61海里であった。
1908年 帝国鉄道庁(国鉄)が青森-函館間定期航路を開設。当時の最新鋭の蒸気タービン船「比羅夫丸」(ひらふまる)就航により、両港間を4時間で結んだ。
1925年からは車両を直接車載する貨車航送を開始。航路廃止まで貨車の航送を行っていた。
1945年7月14日、米軍は本州と北海道の輸送機能を断つべく津軽海峡部及び北海道側の函館港、本州側の青森港、各方面に向けべ3000機以上の米軍機の一斉空襲を行う。特に青函連絡船は全連絡船12隻のうち10隻が沈没(440人の船員が死亡)、2隻が重大な損傷を受けて、青函航路は麻痺状態になった。
また、戦後の1954年9月26日には洞爺丸台風に伴う暴風雨が原因で、航行中の洞爺丸が函館郊外の七重浜に座礁し転覆、死者・行方不明1,761名を出す大惨事となった。他に僚船4隻が沈没した。
高度経済成長期の到来とともに旅客・貨物運送が激増し青函連絡船は最盛期を迎えるが、その後は本州から道内各地を結ぶ航空路線の整備、及び空路の大衆化により旅客需要が航空機へと転移し旅客が激減。
また、貨車による貨物輸送も大型トラック及びそれが搭載可能な長距離フェリーへと奪われていくなど輸送のメインルートから徐々に外れる形で斜陽化していく。
1988年3月13日青函トンネルを含む津軽海峡線の開業に伴い廃止。鉄道連絡船としての使命を終えた。ただし、この年の7月から9月までに青森と函館で行われた博覧会(青函博)の観客輸送のため一日2往復復活運航されたため、正式に廃止されたのは1988年の9月19日であった。
主な船型
また補助汽船(タグボート)としてひうら丸(函館港)、ふくうら丸(青森港)が運用されていた。航路廃止後は両船とも民間に売却され、ひうら丸は小樽港の、ふくうら丸は苫小牧港のタグボートとしてそれぞれの新たな港で活躍している。
現在青森港に「八甲田丸」、函館港に「摩周丸」がそれぞれ保存されている。
余談
青函連絡船の船内食堂の名物は塩ラーメンとカレーであり、宇高連絡船の連絡船うどんと人気を二分した。塩ラーメンはその流れを汲む「BistroCook」という店が函館に存在する。(参照)一方カレーは先述の「BistroCook」や、休日のみ営業する八甲田丸内レストランで食べられる他、連絡船のシェフに弟子入りした女性が始めた長万部食堂の流れをくむ「DELI57」という店が存在する。(参照)
また、青森駅に連絡船で到着した旅行者向けに体が温まるように開発されたのが青森名物である「青森生姜味噌おでん」である。
青函連絡船を操船する乗組員は乗客を乗せて船舶を操縦できる免許(自動車で言う二種免許)を当然のことながら所持しており、これを活用して飯田線が土砂崩れで長期間不通となった際、佐久間ダムを管理する電源開発が所有する巡視艇を青函連絡船の乗組員に操船させて鉄道の代行輸送とした事例がある。
1980年代より夏季にはマリンガールと呼ばれる臨時女性職員が乗務していた。この制度は航路廃止まで存続した。
現在、JRグループは津軽海峡線の後継である北海道新幹線を運行している事もあり、津軽海峡を連絡するフェリー航路とは何の関わりも持っていないが、青森側の青い森鉄道と津軽海峡フェリーは合同で「海峡ゆったどきっぷ」という八戸及び沿線からの青函連絡切符を発売している。