本項では橘型の二代目について記述する事とする。
橘型駆逐艦「橘」
橘型駆逐艦は、日本海軍の中で最後に量産化された駆逐艦。松型駆逐艦の小改良版であり、昭和20年に入ってから次々竣工した。
松型と橘型は戦時量産型ながら大戦中の戦訓を取り入れ、対空・対潜能力を強化した優れた艦であったのだが、橘型が就役する頃になると日本の多くの港が機雷で封鎖されており、橘型の中には活動もままならないまま(あるいは本土決戦用に温存されて)停泊中に触雷したり空襲を受けて損傷・沈没するものが多かった。
しかしその中でネームシップの「橘」は、配備先の函館において激烈な戦闘の末沈没している。
函館空襲
B-29の航続範囲外だったため空襲の被害が少なかった北海道であったが、大戦末期になると近海に米海軍の空母が出没するようになる。
7月14日、北海道全域に米軍機(のべ3000機)が来襲し、津軽海峡にも無数の艦載機が飛来した。米軍機は函館港の船に手当たり次第に襲いかかり、市街地にも機銃掃射や爆弾投下を行った。
「橘」も米軍機来襲に気付くと港外に出、対空戦闘を開始する。だが、敵を引き付けるために再び港内に戻り、その後また港内外に出入りを続けた。「橘」は誘爆をさけるために爆雷を投棄、1時間の戦闘の中で「橘」は米軍機80機の襲来を受け、機銃掃射と至近弾で満身創痍となりながら12.7センチ主砲と25ミリ機銃を撃ちまくり、米軍機6機を撃墜したという。これは敵機が飛んでくるであろう空域に、あらかじめ予測射撃をして機銃弾をばらまいていたからだと思われる。しかし、戦闘開始から1時間後、「橘」はついに艦中央に直撃弾を受け轟沈した。
生存者は、2時間漂流の後救出されている。
この戦いで「橘」は救出後病院で死亡した者も含め乗組員280名のうち戦死140名、戦傷31名という甚大な被害を受けた。
この際、同時に攻撃を受けた青函連絡船は全連絡船12隻のうち10隻が沈没、2隻が重大な損傷を受けて、青函航路は麻痺状態になった。
戦後、引き上げられた「橘」から80体の遺骨が見つかった。
なお、「橘」の林利房艦長は戦後海上自衛隊に入隊しており、この時の戦いについて「象に立ち向かうカマキリ一匹」と述懐している(この記事は北海道新聞の林氏のインタビューをもとに書いたものである。)。