日本武尊
やまとたけるのみこと
概要
第12代・景行天皇の第二皇子で、第14代・仲哀天皇の御父に当たる。
この表記は『日本書紀』のもので、『古事記』での表記は倭建命。
諱を小碓命(おうすのみこと)という。
妃に両道入姫皇女(ふたじなのいりひめのひめみこ)、吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ)、弟橘媛(おとたちばなひめ)、山代之玖玖麻毛理比売(やましろのくくまもりひめ)、布多遅比売(ふたじひめ)などがおられる。
16歳にして父帝から征西事業を任され、九州・中国地方の平定に尽力し、さらにすぐさま東国の平定へ向かい、見事これを達成される。
幼少から武芸に秀で、怪力無双で知られていた。また直感や知恵も冴えており、征西事業ではこれらを生かした知略で地方の強豪豪族たちを討伐していく。成人前は美少女に変装できるほどの美男子でもあったらしい。
一説には、大和朝廷において日本平定に尽力した数人の勇者たちの偉業を統合し、それらを一人の人物とした「架空の英雄」という説も存在する。
現在では、大鳥神社をはじめとする鷲社系の祭神として祀られている。
その生涯(『古事記』ベース)
兄殺し
生まれた頃から怪力無双だったオウス命は、ある時に父親の寵妃に手を出した件でオオウス命
を呼びに行かされる。しかし、このときに父の命を勘違いして(または揉み合いの末に誤って)兄をつまみ殺してしまう。
このことを聞いて、いずれわが身にその災難が降りかかることを恐れた父帝・景行天皇は、オウス命を恐れ疎むようになり、自分から遠ざけようと画策しはじめる。
征西事業へ
熊襲(クマソ)兄弟討伐
16歳となって、ようやく髪結いの年頃になったオウス命は、父帝から征西事業を任され、僅かばかりの兵とともに九州にいる強豪豪族熊襲兄弟の討伐を命じられる。
必勝祈願のために叔母である倭姫命のおられる伊勢へと向かった。叔母はオウス命のために祭祀をおこない、その予言から巫女の衣装を渡す。
九州に着いたオウス命は、叔母から授けられた衣装で美少女に化け、熊襲兄弟の宴会の席に忍び込む。そして宴もたけなわとなった頃を見計らって兄の兄建を斬り、さらに弟である弟建を仕留める。
自らを「ヤマトヲグナ」と名乗ったオウス命に対し、弟建は今わの際に「ヤマトタケル」の名を与え、その知勇を賛辞したという。
以後、オウス命はヤマトタケルと改名するのであった。
東征へ
さらなる遠征
征西事業を成功させ、大和へと帰ったヤマトタケルだったが、景行天皇はすぐさま東征事業を命じてヤマトタケルを大和から離してしまう。
自分が父帝に疎まれていることに悩むヤマトタケルは、叔母のもとへ行き、そこで今度は天叢雲剣と小物が入った小さな袋を渡される。叔母は「困ったことがあればその袋を開けなさい」と助言し、ヤマトタケルは東へと出発した。
草薙の剣
東征事業で相模に到着したヤマトタケルは、国造から「荒ぶる神が暴れている」と野原に向かうように言われる。しかしそれは国造の罠で、彼らは野原に火を付けてヤマトタケルを抹殺しようとする。
窮地に立たされたヤマトタケルは叔母の助言を思い出し、小袋から出てきた火打石を使って火を起こし、天叢雲剣で草を薙ぎ払って迎え火を起こす。迎え火によって火の勢いは逆転し、国造たちは逆に火攻めとなって斃されてしまう。
走水の海難
上総を目指すヤマトタケル一行は、船で海を渡ることとなった。
しかし、その際にヤマトタケルが海を侮った言動をしてしまったがために海神の怒りを買い、航海中に大時化に出くわしてしまう。この危機を脱するべく、相模で火攻めの苦難を共に乗り切ってヤマトタケルの恋人となって同行していた弟橘媛(オトタチバナヒメ)が自ら海に飛び込んで海神の供物となり、嵐を鎮めてくれる。
最愛の人を失ったヤマトタケルは、彼女への歌を読みあげ、七日後に彼女の使っていた櫛が浜に漂着し、それを塚に収めて弔った。
さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも
オトタチバナヒメを偲ぶ
上総を皮切りに次々と東国の豪族を平伏し、足柄坂(現:静岡県・神奈川県県境)の神を蒜(野生の韮)で打ち斃し、東国を平定する。そのときに山頂から東国を望んで「吾妻はや」(わがつまよ)と三度嘆き、以後、東国を東(あづま)と呼ぶようになった。
『日本書紀』との差異
古事記と日本書紀ではところどころ大きく内容が違っており、最大の相違として「景行天皇に愛されている」という部分がある。
また東征のルートも後半部分でかなり違っており、『古事記』が北上しながら制圧していったのに対し、『日本書紀』では船を使って東北へ大回りし、南下しながら制圧するルートに変更されている。
そのほかにも草薙の剣の話など、地名に関連する話は要所要所で違っており、場合によっては『古事記』で語られた話が『日本書紀』ではなかったことにされたり、別の天皇の話として挿げ替えられたりしている。
いずれにせよ、『古事記』と『日本書紀』のそれぞれの記述においてどちらが事実を伝えているかは今なお不明である。