概要
交戦国 | 大ドイツ帝国 | ソヴェト社会主義共和国同盟 |
---|---|---|
指揮官 | E・ブッシュ、W・モーデル、G=H・ラインハルト、H・ヨルダン、K・フォン・ティッペルスキルヒ、W・ヴァイス | А・И・アントーノフ、К・К・ロコソーフスキイ、И・バグラミャーン、И・Д・チェルニャホーフスキイ、Г・Ф・ザハーロフ |
参加兵力 | 兵士85万名、火砲・臼砲・ロケット兵器3236門、戦車および突撃砲570両、航空機602機 | 兵士140万名、火砲・臼砲・ロケット兵器3万1000門、戦車および突撃砲5200両、航空機5300機 |
損失 | 人員39万9102名、2万6397名戦死、10万9776名負傷、捕虜26万2929名 | 人員76万5815名、戦死者および行方不明者17万8507名、負傷者58万7308名 |
バグラチオン作戦は、独ソ戦開始3年目の1944年6月22日にベラルーシで開始された、ソ連軍(赤軍)のナチス・ドイツ軍に対する攻勢(反撃)作戦の名称(※1)。作戦は1944年六月二十二日、ソヴェトの四個軍によるドイツ中央軍集団への攻撃で始まり、その第一目標は白ロシア・ソヴェト社会主義共和国首都ミーンスクの奪還にあった。この作戦によりドイツ中央軍集団は回復不可能な大打撃を受け、バルバロッサ作戦によって拡大していた戦線は大きく西に押し戻され、ほぼポーランドまで移動した(※A1)。軍事史的には、この「ソヴェトの電撃戦」(※2)は、成功した「縦深作戦」戦略の変遷であると評価されている。
バグラチオン作戦は、中央軍集団の完全な崩壊と、国防軍の二十八個師団の喪失へとつながった。バグラチオン作戦は、ドイツの軍事史上、もっとも重大で多くの被害を出した敗北とみなされている。この戦闘の最中に被った損害を、国防軍は補うことができなかった。ドイツの東部戦線の安定はこれ以降、終戦にいたるまで、一時的なものや局地的なものに限定された。「1944年夏の中央軍集団の消滅により、東方におけるドイツの戦争指導の断末魔が始まった」と軍事史家のヘルマン・ガッケンホルツは述べている(※3、※4)。
バグラチオン作戦は、ドイツの敗戦に決定的に寄与したのみならず、政治的な進展にも、後々にいたる影響を与えた。ドイツの敗北は今や最終的に避けられないものとなった。国防軍の、赤色陸軍を少なくとも協定による和平へと追い込むことができるという希望は消散した。ソヴェトの諸々の勝利は、ポーランドのアルミヤ・クラヨヴァ(国内軍)をワルシャワ蜂起へと導くことになった。蜂起の目的は、ポーランドが自力でドイツの占領を脱し、赤軍によって国土を占領されることに先んじることができる、というものであった。カタストロフ的な前線における後退を目の当たりにし、ドイツのレジスタンス運動の参加者は、1944年七月二十日、クーデターの敢行を決意した。その他の重要な点として、ソヴェトの攻勢の最中、初めてドイツの強制収容所や絶滅収容所が各地で解放され、それによってホロコーストの存在に関する情報が広範囲にわたって国際社会に認知されることになった。
東部戦線の戦いは苛烈を極め、短期間で大規模の戦死者を出したことから、ギネスブックに記載された。
※1 Militär-Enzyklopädisches Wörterbuch. S. 60.
※A1 バグラチオン作戦全体の過程において、赤軍の部隊は十一個の攻勢を分担し、ロシアの戦史叙述では、ヴィーチェプスク=オールシャ作戦、モギリョーフ作戦、ボブルーイスク作戦、ポーロツク作戦、ミーンスク作戦、ヴィリニュス作戦、シャウレイ作戦、ビャウィストク作戦、ルブリン=ブレスト作戦、カウナス作戦およびオソヴィエツ作戦と称されている。この区分は、並行して複数の展開が行われる際、主目的を見失わないうえで有益であるため維持されている。
※2 Dunn: Soviet Blitzkrieg: The Battle for White Russia, 1944. S. 2.
※3 Hermann Gackenholz: Der Zusammenbruch der Heeresgruppe Mitte 1944. In: Hans-Adolf Jacobsen, Jürgen Rohwer (Hrsg.): Entscheidungsschlachten des Zweiten Weltkrieges. Verlag Bernard & Graefe, Frankfurt/Main 1960, S. 474.
※4 ヘルマン・ガッケンホルツ「1944年夏の中央軍集団の崩壊について」。季刊現代史(VfZ)第三年次(1955年)第三号、S. 317-333、脚注。ガッケンホルツはオルテルスブルクの司令部において、参謀司令部で戦史を担当していた。彼はそのため、「参謀長ハンス・クレープス中将、および一級参謀本部員フォン・デア・グルーベン参謀本部大佐の資料を自由に使うことが可能であった」。この論文は、319~333ページに掲載されている。
その他
作戦名はロシア帝国時代のナポレオン戦争(ロシアでは「祖国戦争」)で活躍したピョートル・バグラチオーン将軍に由来。
バグラチオン作戦に含まれる時期は、パーシー・エルンスト・シュラムによって刊行された、国防軍首脳部の戦時中の日誌では空白となっており、それはこの戦域における戦争指導の責任が、アドルフ・ヒトラーおよび陸軍参謀本部にのみ依拠していたことにあるとしている。OKHの資料は、一部の例外を除き、散逸してしまったといわれている(※1)。
※1 Schramm: Kriegstagebuch des Oberkommandos der Wehrmacht. Bd. IVa, S. 856.