芹沢鴨
せりざわかも
概要
生年は不明。前名は下村嗣次と言われている。以前までは郷士芹沢外記の三男玄太だといわれてきたが、それは芹沢兵太の誤りであり、別人と判明した。また、外記の四男長谷川庄七は文政九(1826)年生まれであることから、今までいわれていた生年と合わず、再考が要されている。
水戸藩士芹沢又衛門以幹(剣術師範を務めた佐藤家から芹沢家に養子に入る。日置流雪荷派弓術の達人)の子供という説も存在しており、こちらも現在注目されている。
戸賀崎熊太郎から神道無念流剣術を学び、免許皆伝を受け師範代を務めたとされる。
尊皇攘夷思想を持ち、玉造勢と呼ばれる水戸藩の尊皇攘夷派の集団に属していた。しかし、玉造勢は粗暴な振る舞いが多く、藩庁を悩ませたことから、下村は捕縛され処刑を待つ身となってしまった。だが、文久2年、世論が浪士赦免論に傾き、激派が要職に返り咲くと、大赦令により出獄することができた。文久3年1月だった。この後、名前を芹沢鴨と改めたとされる。
出獄後、芹沢は江戸に向かい、上洛に際し将軍の警護を目的(本当の目的は尊皇攘夷運動の先駆けとなる事)として清河八郎が設立した浪士組に参加した。ここで、後に共に新撰組を立ち上げる近藤勇や土方歳三らと出会う。浪士組は京都到着後、朝廷の直属組織となり、尊皇攘夷を決行するため江戸に戻ろうとするが、芹沢や近藤などはこれに反対して京都に残る事を選択して浪士組を脱退した。
脱退後、芹沢は近藤らと会津藩に嘆願書を出し、会津藩預かりとなって壬生浪士組を結成した。これが後に新撰組となる。この壬生浪士組で、芹沢は近藤や新見錦と共に局長を務め、後には筆頭局長として組をまとめる立場となった。
壬生浪士組は八月十八日の政変を機に会津藩から新撰組という名を与えられ、芹沢は引き続き局長職を続投した。しかし、芹沢は壬生浪士組時代から商人への恐喝、力士との乱闘騒ぎ、酒の席での傷害事件、遊女への強制断髪など暴力行為に関する問題が絶えず徐々に立場が危うくなっていた。その結果、浪士組参加から1年も経たない1863年(文久3年)9月、芹沢は度重なる暴力行為からとうとう朝廷から逮捕命令が出てしまい、これを受けた会津藩を経由して新撰組隊士の近藤、土方、山南敬助らに芹沢に対する処罰を行うよう密命が出された。
そして密命から数日後、芹沢は宴会後に泥酔していたところを新撰組隊士数名に襲われ、部下1名及び妾1名と共に暗殺された。事件後、暗殺事件は長州藩によるものとして処理された。
芹沢の写真
ネット上で「芹沢鴨の写真」として体格の良い侍が従者と写っている写真が紹介されることがあるが、これは誤りで芹沢の写真は存在しない。情報源は永六輔の『幕末の素顔 日本異外史』に収録された写真で、その書籍に収録された写真はすべて米国国立図書館に所蔵のものである。同書には顔立ちの良い青年剣士の写真が収録されており、この写真は沖田総司として収録されているが、これも誤り。
創作上での扱い
新撰組を扱った作品での大半は酒に溺れ手の付けられない凶暴な悪漢として描かれることが多い。
しかしその反面、堂々としていて大将またはリーダー格の器を持ち、粛清される時など近藤ら試衛館派に大きな影響を残すことがあり完全に憎めない存在になることもある。
『大河ドラマ 新選組!』
演:佐藤浩市
壬生浪士組(新選組)筆頭局長。剣術や学問の実力を備えた一廉の人物だが傍若無人で他人はおろか自分すら信じれず自身の弱い部分を突かれると己を律しきれなくなる。そして酒癖も悪い。
近藤達とは清河の画策に反対し共に京に残った同志だが自分とは違う真っ直ぐな生き方でありながら、自分に敬意をもって接してくる近藤に徐々に引け目を感じ始め、大阪の力士との乱闘事件で近藤が実直な対応で解決したことでコンプレックスを募らせ遂に商家大和屋を襲撃してしまう。そして自分たちに粛清命令が下され暗殺当日の夜、隊士総出の宴の際非情になりきれず自分に今夜起こる事を話そうとする近藤に対して「鬼になれよ近藤、鬼になって俺を食っちまえよ。遠慮はいらねえよ。」と覚悟を告げ部下の平山と平間を連れ屯所へ戻る。そして、自分を粛清する刺客の中に前から一目を置いていた沖田がいたことを確認した際に「嬉しいぜ」と零し、土方、沖田と死闘を繰り広げ最終的に暗殺され、沖田に刺された際にはどこか満足げな笑みを浮かべていた。彼の存在は近藤達に大きな影響を与えた。
余談だが佐藤の父である三國連太郎は1969年に公開された三船敏郎制作の「新選組」で芹沢鴨を演じていて親子二代で芹沢役を演じた。
『幕末新選組』
このなかでの芹沢は一種の性格異常者で酒が入ると手に負えなくなるなど大筋は一般的な芹沢像だが、同門の神道無念流である永倉のさっぱりした気性が可愛がっていた亡き弟にそっくりだという理由で自ら永倉の髭剃りをするなど何かと面倒をみ、自分の酒は悪い酒だと熟知しながらも、そうなるには人間、余程の理由があるのだからと永倉からの自らの生い立ちへの問いかけには答えず複雑な過去を匂わせるなど人間味ある面が描写されている。
そんな芹沢との関係で永倉は芹沢暗殺役からは外され、永倉は芹沢の死を心から悼んでいる。